テルミドール‐の‐はんどう【テルミドールの反動】
テルミドールの反動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 06:54 UTC 版)
「ジョルジュ・クートン」の記事における「テルミドールの反動」の解説
12月21日、国民公会の議長に選出されてパリへと帰還し、ジャコバン左派のエベールとその一派の追放に一役を買った。さらに右派のダントンを失脚させた後、プレリアール22日法(通称「恐怖政治法」)の制定に寄与した。これは、革命裁判の手続きを短くするため、証言さえあれば逮捕に踏み切れるとするものであった。この法律により、ジャコバン過激派=山岳派による恐怖政治はさらに加速する。 恐怖政治の過激化に伴って、明確な態度に示さないにせよ、多くの議員が反ロベスピエール感情を抱くようになってきた。そんな中、山岳派独裁打倒を目指すテルミドールのクーデターが勃発する。事前にこの動きを予感していたクートンは、南仏へ行くはずだった予定をキャンセルしてパリに留まった。案の定、彼はロベスピエール、サン・ジュストと共に恐怖政治の3巨頭として多くの非難を浴び、逮捕されてしまう。一度はパリ市役所に逃れるも、再度襲撃された際に自殺に失敗して、階段から転落して再び逮捕され、最終的にギロチンにかけられてその生涯を終えた。
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