デニス・ジョンソンとは? わかりやすく解説

デニス・ジョンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/29 05:24 UTC 版)

デニス・ジョンソン
Dennis Johnson
現役時代のジョンソン
(右はロバート・パリッシュ)
故人
愛称 D.J.
国籍 アメリカ合衆国
生年月日 1954年9月18日
没年月日 (2007-02-22) 2007年2月22日(52歳没)
出身地 カリフォルニア州サンペドロ
身長(現役時) 193cm (6 ft 4 in)
体重(現役時) 84kg (185 lb)
キャリア情報
出身 ペパーダイン大学
NBAドラフト 1976年 / 2巡目 / 全体29位[1]
プロ選手期間 1976年–1990年
ポジション PG / SG
背番号歴 24, 3
永久欠番 セルティックス  3 
指導者期間 1993年–2007年
選手経歴
1977-1980
1980-1983
1983-1990
シアトル・スーパーソニックス
フェニックス・サンズ
ボストン・セルティックス
指導者経歴
1993-1997
1999-2000
2000-2003
2003
2004-2005
2005-2007
ボストン・セルティックス(AC)
ラクロス・ボブキャッツ
ロサンゼルス・クリッパーズ(AC)
ロサンゼルス・クリッパーズ
フロリダ・フレイム
オースティン・トロス
受賞歴
NBA通算成績
得点 15,535 (14.1 ppg)
アシスト 5,499 (5.0 apg)
スティール 1,477 (1.3 spg)
Stats  Basketball-Reference.com
Stats  NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
バスケットボール殿堂入り選手 (詳細)

デニス・ウェイン・ジョンソンDennis Wayne Johnson1954年9月18日 - 2007年2月22日)は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。カリフォルニア州サンペドロ出身。ディフェンスの名手として知られ、NBAオールディフェンシブチームに計9度選出され、1980年代のボストン・セルティックスの黄金期を支えた。

NBAキャリア

シアトル・スーパーソニックス (1976-80)
ペパーダイン大学出身。1976年のNBAドラフト2順目29位指名と、下位指名でシアトル・スーパーソニックスに入団した。入団3年目の1978年のプレーオフで1977年優勝のポートランド・トレイルブレイザーズデンバー・ナゲッツを破り、NBAファイナルに進出した。ファイナルの対戦相手であるワシントン・ブレッツウェス・アンセルドエルビン・ヘイズを擁したベテランチームで、ソニックスは3勝4敗で惜しくも敗れた。翌年の1978-79年もNBAファイナルに進み、再びブレッツと対戦して4勝1敗で優勝し、ジョンソンはファイナルMVPを受賞した。しかし、チームにおけるジョンソンの評判は悪化し、自己中心的なプレーヤーとして監督のレニー・ウィルキンスからも「ジョンソンはチームのガンだ」と言われた。
フェニックス・サンズ (1980-83)
1980年にフェニックス・サンズに移籍した。ジョンソンは、選手として更なる名声を高めて主にシューティングガードとして活躍し、ソニックスでは2番手か3番手の選手だったがフェニックスではチームの主な得点源になった。
ボストン・セルティックス (1983-90)
ボストン・セルティックスは、プレイオフで何度かフィラデルフィア・セブンティシクサーズに敗れていた。セルティックスのゼネラルマネージャーだったレッド・アワーバックは、ジョンソンのディフェンス能力を高く評価しており、サンズから獲得した。セルティックスは、ラリー・バードケビン・マクヘイルロバート・パリッシュダニー・エインジを擁して黄金期を築き、1984年と1986年に優勝した。
バードは常々「DJは一緒にプレーした中で最高の選手だ」と語っており、2人のコンビプレーは見る者を楽しませた。特に1987年のプレイオフ、対ピストンズ戦でみせた残り5秒からの奇跡の逆転劇は伝説となっている。また、1984年のNBAファイナルでは前半こそ調子をおとしていたが、4戦以降目覚ましい活躍をみせ、得点はディフェンスでマジック・ジョンソンを苦しめ、優勝に大きく貢献した。

個人成績

略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック  PPG  平均得点  太字  キャリアハイ
  優勝シーズン  

NBA

レギュラーシーズン

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1976–77 SEA 81 20.6 .504 .624 3.7 1.5 1.5 .7 9.2
1977–78 81 27.3 .417 .732 3.6 2.8 1.5 .6 12.7
1978–79 80 34.0 .434 .781 4.7 3.5 1.3 1.2 15.9
1979–80 81 36.3 .422 .207 .780 5.1 4.1 1.8 1.0 19.0
1980–81 PHX 79 33.1 .436 .216 .820 4.6 3.7 1.7 .8 18.8
1981–82 80 77 36.7 .470 .190 .806 5.1 4.6 1.3 .7 19.5
1982–83 77 74 33.1 .462 .161 .791 4.4 5.0 1.3 .5 14.2
1983–84 BOS 80 78 33.3 .437 .125 .852 3.5 4.2 1.2 .7 13.2
1984–85 80 77 37.2 .462 .269 .853 4.0 6.8 1.2 .5 15.7
1985–86 78 78 35.0 .455 .143 .818 3.4 5.8 1.4 .4 15.6
1986–87 79 78 37.1 .444 .113 .833 3.3 7.5 1.1 .5 13.4
1987–88 77 74 34.7 .438 .261 .856 3.1 7.8 1.2 .4 12.6
1988–89 72 72 32.1 .434 .140 .821 2.6 6.6 1.3 .3 10.0
1989–90 75 65 27.1 .434 .042 .843 2.7 6.5 1.1 .2 7.1
通算 1,100 673 32.7 .445 .172 .797 3.9 5.0 1.3 .6 14.1
オールスター 5 0 19.6 .541 --- .864 3.6 1.8 1.0 .8 11.8

プレーオフ

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1978 SEA 22 37.6 .412 .704 4.6 3.3 1.0 1.0 16.1
1979 17 40.1 .450 .771 6.1 4.1 1.6 1.5 20.9
1980 15 38.8 .410 .333 .839 4.3 3.8 1.8 .7 17.1
1981 PHX 7 38.1 .473 .200 .762 4.7 2.9 1.3 1.3 19.6
1982 7 38.7 .477 .000 .769 4.4 4.6 2.1 .6 22.3
1983 3 36.0 .458 .000 .833 7.7 5.7 1.7 .7 18.0
1984 BOS 22 36.7 .404 .429 .867 3.6 4.4 1.1 .3 16.6
1985 21 21 40.4 .445 .000 .860 4.0 7.3 1.5 .4 17.3
1986 18 18 39.7 .445 .375 .798 4.2 5.9 2.2 .3 16.2
1987 23 23 41.9 .465 .115 .850 4.0 8.9 .7 .3 18.9
1988 17 17 41.3 .433 .375 .796 4.5 8.2 1.4 .5 15.9
1989 3 1 19.7 .267 --- --- 1.3 3.0 1.0 .0 2.7
1990 5 5 32.4 .484 .333 1.000 2.8 5.6 .4 .4 13.8
通算 180 85 38.9 .439 .239 .802 4.3 5.6 1.4 .6 17.3

引退後

セルティックスのスカウトやアシスタントコーチを務めた。その後NBAデベロップメント・リーグオースティン・トロスヘッドコーチとなったが、2007年2月22日に練習後、駐車場へ向かう最中に突然倒れ亡くなった。死因は心臓発作であった[1]

プレースタイル

ジョンソンは非常にディフェンスに優れた選手だった。スティールがうまく、相手がスティールされたことに気づかないこともしばしばあった。またガードにしては背が高く、腕が長かったためリバウンドも得意とした。攻撃においては、初期は無理にペネトレートしたり、あまり得意ではないジャンプシュートを撃つこともあったが、ボストンに移ったころには攻撃の起点として見事なアシストをみせ、チームプレーに徹していた。また決して足は速くなかったが、独特なステップ(相手からウサギのダンスのようだと言われた)でペネトレートし得点、あるいは相手のファールを誘った。接戦に強いことでも知られ、それまで不調でも4クォーターになると多くのシュートを成功させた。大学ではフォワードであったこともあり、ポストプレーもうまかった。また競争心が強いことで知られるラリー・バードをして「DJは俺より競争心が強い」と言わせるほどの負けず嫌いだった。

主な受賞

  • ファイナルMVP(1979)
  • オールNBAファーストチーム(1981)
  • オールディフェンシブファーストチーム(1979-1983、1987)
  • オールディフェンシブセカンドチーム(1984-1986)
  • 15535得点
  • 4249リバウンド
  • 5499アシスト
  • 1477スティール

脚注

  1. ^ Dennis Johnson, ex-Celtic star, dead at age 52”. ボストン・グローブ (2007年2月23日). 2009年1月12日閲覧。

外部リンク



デニス・ジョンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 10:02 UTC 版)

エルム街の悪夢5 ザ・ドリームチャイルド」の記事における「デニス・ジョンソン」の解説

アリス父親前作違い、娘を心配するいい父親になっている

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