ボニファティウスとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 04:10 UTC 版)
「アエティウス」の記事における「ボニファティウスとの対立」の解説
ローマを守るためにガリアで戦っている間、アエティウスは宮廷の権力者との闘争と云うもう一つの舞台でも戦っていた。425年以降、アエティウスはフラウィウス・フェリックス指揮下の二人の有力将軍の一人であり、もう一人はボニファティウス (en) だった。二人の対立は年々高まっていった。ボニファティウスはアフリカ伯(コメス (en) )としてアフリカ管区 (en) を統治していたが、背反の噂が流れて母后ガッラ・プラキディアの猜疑を受け召還命令を受けた。これはアエティウスの策謀によるものであったとされる。ボニファティウスはこれに応じず427年にアフリカで反乱を起こした。ボニファティウスはイベリア半島のヴァンダル族に兵力提供を要請したが、ヴァンダル族は部族を挙げてジブラルタル海峡を渡った。これに脅威を感じたボニファティウスはヴァンダル族を討伐しようとするが苦戦する。430年にボニファティウスは母后プラキディアと和解し、アフリカを捨ててイタリアへ帰還した[要出典] 430年5月にフェリックスが死去すると権力闘争はアエティウスとボニファティウスの二人の主役に絞られた。432年、アエティウスは執政官となり、母后プラキディアによってイタリアへ召還されたボニファティウスは(おそらくはガリア軍司令官のアエティウスとの対抗勢力として)パトリキの地位を与えられた。プラキディアが自分を排除しようとしていると信じたアエティウスはボニファティウスを攻撃すべく進軍してリミニで会戦した。ボニファティウスが勝利したが、彼は重傷を負い数ヵ月後に死去した。 セバスティアヌス (en) が後継者となりマギステル・ミリトゥムの称号を引き継いだ。アエティウスは私有地に退いたがセバスティアヌスによって暗殺が企てられたため、ローマへ逃れ、次いでダルマチアとパンノニアを経て彼の友人であるフン族の元へ逃れた。 433年、アエティウスはフン王ルーアと軍事力提供の見返りにパンノニアの支配を認める取引を行い、フン族の助けを受けてアエティウスはイタリアへ帰還した。アエティウスは権力の座に復帰し、マギステル・ミリトゥム(magister utriusque militiae)の称号を受け(セバスティアヌスはコンスタンティノープルへ亡命した)、さらにボニファティウスの私有地を手に入れて、彼の未亡人のペラギアと結婚した。
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