カール・フォン・ビューロウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:23 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動カール・フォン・ビューロウ Karl von Bülow |
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生誕 | 1846年4月24日![]() ![]() |
死没 | 1921年8月31日 (75歳)![]() ![]() |
所属組織 | ドイツ帝国陸軍 |
軍歴 | 1866年 - 1916年 |
最終階級 | 陸軍元帥 |
カール・ヴィルヘルム・パウル・フォン・ビューロウ(Karl Wilhelm Paul von Bülow, 1846年4月24日 - 1921年8月31日)は、ドイツの軍人。陸軍元帥。第一次世界大戦の際ドイツ第2軍を率いてマルヌ会戦に参加した。
経歴
ベルリンで由緒あるプロイセン貴族の家庭に生まれる。プロイセン陸軍に入り、普墺戦争に従軍。普仏戦争の際は大尉として参謀本部にあった。1884年、大佐に昇進し近衛歩兵第9連隊長。1897年、プロイセン軍事省で局長。1903年から1912年まで、プロイセン第3軍団長。第一次世界大戦直前には第3軍監察長官を務めていた。
大戦勃発と同時に第2軍司令官となり、シュリーフェン・プランの作戦計画に従い、ベルギーに侵攻してナミュールを攻略。迎撃するフランス第5軍の攻撃をシャルルロワ、サン・カンタンで撃退。クルック率いる第1軍と共にパリを目指した。しかし両軍の間が50km以上開いたため、ビューロウは最右翼に陣取る第1軍に対し、その左側に陣取る第2軍の右翼を援護するように命じた。これによりマルヌ会戦が発生する。シュリーフェン・プランと異なり、第1軍はパリの背後に回り込んでの西方からではなく、北東から攻撃をかけることになった。フランス第6軍は守りの薄い第2軍の右翼を攻撃して第2軍を後退に追い込み、第1軍と第2軍の間隙を広げることに成功。その間隙にイギリス海外派遣軍(BEF)が突入したため、まず第1軍が、次いで第2軍もエーヌ川までの後退を余儀なくされた。こうしてパリ攻略の機会は失われた。
戦争が塹壕戦となって膠着していた1915年1月、元帥に昇進。しかし2ヶ月後に心臓発作を起こして後送され、軍司令官を退く。1916年に退役。再起することなく終戦後の1921年にベルリンで死去した。
固有名詞の分類
第一次世界大戦期ドイツの軍人 |
ゴットロープ・ベルガー リヒャルト・グリュックス カール・フォン・ビューロウ エルヴィン・イェーネッケ クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト |
ドイツの貴族 |
エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト カール・フォン・ビューロウ ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク |
プロイセンの元帥 |
コルマール・フォン・デア・ゴルツ ディートリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ カール・フォン・ビューロウ ヘルマン・フォン・アイヒホルン クリストフ・ヴィルヘルム・フォン・カルクシュタイン |
ドイツ帝国の元帥 |
アルブレヒト・フォン・ローン コルマール・フォン・デア・ゴルツ カール・フォン・ビューロウ ヘルマン・フォン・アイヒホルン レームス・フォン・ヴォイルシュ |
ビューロー家 |
ベルンハルト・フォン・ビューロー ハンス・フォン・ビューロー クラウス・フォン・ビューロー カール・フォン・ビューロウ |
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