参議就任と解官とは? わかりやすく解説

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参議就任と解官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)

平頼盛」の記事における「参議就任と解官」の解説

仁安2年1167年5月17日清盛太政大臣辞任する。それに先立つ5月10日重盛に対して東山東海山陽南海道山賊海賊追討宣旨下される(『兵範記同日条)。これにより、重盛国家的軍事・警察正式に委任されることになり、清盛平氏棟梁地位重盛継承されることになった8月には重盛の弟・宗盛参議昇進して平氏4人目公卿となった。 翌仁安3年1168年3月呈子院号宣下受けて九条院となったため、頼盛は皇太后宮権大夫辞任する。この院号宣下后位空席設けるための追い出し工作であり、入れ替わり滋子皇太后となる。滋子猶子となっていた宗盛は、皇太后宮権大夫となった8月、頼盛より位階が下の兄・教盛が参議任じられ平氏5人目公卿となる。頼盛は正三位だったが非参議であり、参議になることは悲願だった。10月18日、頼盛はついに待望参議となるが、わずか一月後の11月28日、子の保盛とともに全ての官職解官されてしまう。 解官理由は、保盛については五節節会舞姫参入御覧儀式勤めを、後白河院指示従わず毎度怠ったこと、頼盛については、3月26日滋子代始め入内奉仕しなかったこと、休暇願い出さず無断厳島神社参詣したこと、鎮西知行していたにも関わらず大嘗会関係の課役勤めなかったことだった。高倉天皇即位や妻の滋子に関することであったため、後白河院怒り激しいものがあった。 処罰それだけとどまらず12月には頼盛の家人6名が解官される。彼らは武官職にある軍事貴族であり、頼盛の軍事的基盤粉砕されてしまった。この時期重盛は病により健康がすぐれず権大納言辞任している。解官背景には、独自の動き見せていた頼盛を完全な統制下に置くことで、重盛地位守ろうとする清盛意思介在していた可能性もある。 頼盛の失脚一年長きに渡り出仕許されたのは嘉応元年1169年11月だった。

※この「参議就任と解官」の解説は、「平頼盛」の解説の一部です。
「参議就任と解官」を含む「平頼盛」の記事については、「平頼盛」の概要を参照ください。

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