参議就任と解官
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仁安2年(1167年)5月17日、清盛は太政大臣を辞任する。それに先立つ5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下される(『兵範記』同日条)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任されることになり、清盛の平氏棟梁の地位は重盛に継承されることになった。8月には重盛の弟・宗盛が参議に昇進して、平氏4人目の公卿となった。 翌仁安3年(1168年)3月、呈子が院号宣下を受けて九条院となったため、頼盛は皇太后宮権大夫を辞任する。この院号宣下は后位に空席を設けるための追い出し工作であり、入れ替わりに滋子が皇太后となる。滋子の猶子となっていた宗盛は、皇太后宮権大夫となった。8月、頼盛より位階が下の兄・教盛が参議に任じられ、平氏5人目の公卿となる。頼盛は正三位だったが非参議であり、参議になることは悲願だった。10月18日、頼盛はついに待望の参議となるが、わずか一月後の11月28日、子の保盛とともに全ての官職を解官されてしまう。 解官の理由は、保盛については五節の節会で舞姫参入・御覧の儀式の勤めを、後白河院の指示に従わず毎度怠ったこと、頼盛については、3月26日の滋子の代始めの入内に奉仕しなかったこと、休暇願いを出さずに無断で厳島神社に参詣したこと、鎮西を知行していたにも関わらず大嘗会関係の課役を勤めなかったことだった。高倉天皇の即位や妻の滋子に関することであったため、後白河院の怒りは激しいものがあった。 処罰はそれだけにとどまらず、12月には頼盛の家人6名が解官される。彼らは武官職にある軍事貴族であり、頼盛の軍事的基盤は粉砕されてしまった。この時期、重盛は病により健康がすぐれず権大納言を辞任している。解官の背景には、独自の動きを見せていた頼盛を完全な統制下に置くことで、重盛の地位を守ろうとする清盛の意思が介在していた可能性もある。 頼盛の失脚は一年の長きに渡り、出仕が許されたのは嘉応元年(1169年)11月だった。
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