一時的な失脚と明治六年政変とは? わかりやすく解説

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一時的な失脚と明治六年政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)

山縣有朋」の記事における「一時的な失脚と明治六年政変」の解説

山城屋事件」も参照 当時奇兵隊山縣部下だった政商山城屋和助は、兵部省を含む各省庁から借り入れをし、大きな利益上げていた。また各省庁官吏山城屋から借金をしていた。しかし生糸価格暴落し輸出増やすために洋行したが、派手に豪遊したことで噂になった司法卿江藤新平調査行い山縣排斥運動つながった従来から反抗的であった薩摩将校たちが辞職迫ったことにより、山縣6月29日辞表提出した辞表受け取った明治天皇西郷隆盛・従道兄弟調停に入るよう命じた調停結果山縣と従道が近衛都督副都督を辞任し西郷隆盛都督となることで収拾を図ることとなったこの後山縣山城屋帰国求め借金返済迫ったところ、山城屋関係書類焼却し陸軍省内で割腹自殺遂げた薩摩派山縣攻撃は更に強まり明治6年4月山縣再度辞表提出したこの際陸軍大輔辞任のみが認められ陸軍中将地位は保つこととなった山縣なき陸軍瓦解恐れた西郷大隈重信井上馨らは、4月29日山縣陸軍御用掛として陸軍代理任じた6月8日には陸軍兼任求められ辞退したものの認められず、陸軍卿を務めることとなった7月から山縣は各鎮台巡視行い10月明治六年政変直接関与することはなかった。山縣当時閣議メンバーではなかったが、政変後の10月26日帰京した際もなかなか木戸の元を訪れないなど煮え切らない態度をとり、木戸怒りを買うこととなった。これは山縣恩人である西郷との対立消極であったためと指摘する意見もある。 政変後の人事では山縣以外の卿はすべて参議となったにもかかわらず木戸反対により山縣のみ参議となれなかった。その後大久保利通伊藤博文岩倉らはなおも山縣参議就任働きかけている。一方で陸軍省内での山田顕義派閥との対立激化し明治7年1874年2月陸軍卿を辞任近衛都督就任した2月22日には参謀局(後の参謀本部)が設置され参謀局長に就任した。しかし立場は不安定であり、佐賀の乱台湾出兵関与できなかった。 しかし台湾出兵での西郷従道独断出兵に不安を覚えた大久保は、出兵反対派であった山縣再起用を考え6月30日陸軍卿に再任された。8月大久保推薦参議就任した。またこの頃から一時険悪であった木戸との関係も修復される

※この「一時的な失脚と明治六年政変」の解説は、「山縣有朋」の解説の一部です。
「一時的な失脚と明治六年政変」を含む「山縣有朋」の記事については、「山縣有朋」の概要を参照ください。

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