一時的な失脚と明治六年政変
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「山縣有朋」の記事における「一時的な失脚と明治六年政変」の解説
「山城屋事件」も参照 当時、奇兵隊で山縣の部下だった政商・山城屋和助は、兵部省を含む各省庁から借り入れをし、大きな利益を上げていた。また各省庁の官吏も山城屋から借金をしていた。しかし生糸価格が暴落し、輸出を増やすために洋行したが、派手に豪遊したことで噂になった。司法卿の江藤新平は調査を行い、山縣の排斥運動につながった。 従来から反抗的であった薩摩系将校たちが辞職を迫ったことにより、山縣は6月29日に辞表を提出した。辞表を受け取った明治天皇は西郷隆盛・従道兄弟に調停に入るよう命じた。調停の結果、山縣と従道が近衛都督と副都督を辞任し、西郷隆盛が都督となることで収拾を図ることとなった。 この後山縣が山城屋に帰国を求め、借金の返済を迫ったところ、山城屋は関係書類を焼却して陸軍省内で割腹自殺を遂げた。 薩摩派の山縣攻撃は更に強まり、明治6年4月に山縣は再度辞表を提出した。この際、陸軍大輔の辞任のみが認められ、陸軍中将の地位は保つこととなった。山縣なき陸軍の瓦解を恐れた西郷・大隈重信・井上馨らは、4月29日に山縣を陸軍御用掛として陸軍卿代理に任じた。6月8日には陸軍卿兼任を求められ、辞退したものの認められず、陸軍卿を務めることとなった。 7月から山縣は各鎮台巡視を行い、10月の明治六年政変に直接関与することはなかった。山縣は当時閣議のメンバーではなかったが、政変後の10月26日に帰京した際もなかなか木戸の元を訪れないなど煮え切らない態度をとり、木戸の怒りを買うこととなった。これは山縣が恩人である西郷との対立に消極的であったためと指摘する意見もある。 政変後の人事では山縣以外の卿はすべて参議となったにもかかわらず、木戸の反対により山縣のみ参議となれなかった。その後も大久保利通と伊藤博文、岩倉らはなおも山縣の参議就任を働きかけている。一方で陸軍省内での山田顕義派閥との対立が激化し、明治7年(1874年)2月に陸軍卿を辞任、近衛都督に就任した。2月22日には参謀局(後の参謀本部)が設置され、参謀局長に就任した。しかし立場は不安定であり、佐賀の乱や台湾出兵に関与できなかった。 しかし台湾出兵での西郷従道の独断出兵に不安を覚えた大久保は、出兵反対派であった山縣の再起用を考え、6月30日に陸軍卿に再任された。8月に大久保の推薦で参議に就任した。またこの頃から一時険悪であった木戸との関係も修復される。
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