一時的な復権と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:35 UTC 版)
段祺瑞は下野したものの、徐樹錚の助力を得て張作霖や孫文と連絡をとりあい、再起と直隷派打倒を図った。1924年(民国13年)9月、第2次奉直戦争が勃発し、翌月には馮玉祥が北京政変(首都革命)を引き起こした。これにより馮と張作霖の支持を受ける形で、同年11月24日に段は臨時政府執政として返り咲いたのである。翌1925年(民国14年)2月には段の主宰で善後会議を開くなどしたが、馮玉祥・張作霖らが軍事・政治的実権を握っており、段の影響力は限定的だった。 1926年(民国15年)になると、馮玉祥下野後の国民軍を壊滅させようと、奉天派・直隷派に加え、日本など主要諸外国も攻撃姿勢を示す。これが原因で学生・労働者らによる反帝国主義運動が勃発し、同年3月18日に段祺瑞は武力弾圧を加えた(三・一八虐殺事件)。更に張作霖らと結んで国民軍駆逐を謀ったが、これを察知した国民軍の鹿鍾麟に奇襲され執政府から追い払われた。その後、北京入りした呉佩孚・張作霖らを頼ろうとしたが、二人とも段を見捨てている。結局、段は天津に逃げ込み下野せざるを得なかった。 1933年(民国22年)2月、日本軍が段祺瑞を利用することを恐れた蔣介石は段を招聘し、段もこれに応じて上海に移ってきた。1935年(民国24年)、国民政府委員に任命されたが、実際には就任しなかった。1936年(民国25年)11月2日、上海で病没。享年72(満71歳)。
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