一時的な復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 08:16 UTC 版)
343年8月、段蘭もまた捕らえられて後趙へと送られたが、石虎は罪を赦し、鮮卑五千人を与えて元々の段部の本拠地であった遼西郡令支県に駐屯させた。これにより、後趙の従属化にはあったものの、段部は復興する事となった。段蘭は度々後趙に背いては石虎を煩わしたという。また、段末波の子である段勤もまた後趙に服属し、建義将軍に任じられた。 段蘭が死ぬと、子の段龕がこれに代わった。 350年1月、後趙の武徳王李閔(後の冉閔)の専横により国が乱れると、これに反旗を翻す者が相次いだ。この混乱に乗じ、段龕は衆を率いて広固に割拠すると、斉王を自称した。また、段勤は衆を率いて黎陽に移り、これを拠点とすると、趙王を自称して前燕に帰順した。 8月、段勤は同じく後趙から自立していた張賀度・劉国・靳豚らと共に冉閔のいる鄴へ侵攻したが、大敗を喫した。 351年2月、東晋朝廷により、段龕は鎮北将軍に任じられ、斉公に封じられた。 352年3月、段勤は胡人数万を従えて繹幕に割拠すると、趙帝を自称した。4月、前燕の建鋒将軍慕容覇(後の慕容垂)らが段勤討伐の兵を挙げると、段勤は弟の段思と共に城を挙げて降伏した。慕容儁は罪を赦して仕官させたが、やがて前燕の人に段勤は殺害された。 355年12月、前燕の撫軍将軍慕容恪は段龕討伐の兵を挙げると、黄河北岸に到達した。段龕の弟の段羆は敵が河を渡り切る前に迎撃するよう勧めたが、段龕は従わなかった。段羆は頑なまでに求めたため、段龕は怒って段羆を斬り殺した。 356年1月、慕容恪が河を渡ると、段龕は迎え撃ったが、大敗を喫して数千の兵が捕虜となった。段龕は広固に逃げ戻ると、慕容恪はそのまま軍を進め、広固を包囲した。 2月、慕容恪は長期戦の構えを取った。また、段龕の治める諸城に降伏を促し、段龕配下の徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らを帰順させた。 8月、段龕は東晋に救援を要請すると、穆帝は徐州刺史荀羨を救援に派遣したが、荀羨は前燕軍を恐れて進軍しなかった。 10月、慕容恪が糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は城から打って出るも慕容恪に敗れ、かろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅した。 11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して出頭した。段龕は目を潰された後に殺され、その配下3千人余りは生き埋めとなった。これにより、段部は完全に滅亡した。
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