一時的な戦力喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 05:57 UTC 版)
「ウラジオストク巡洋艦隊」の記事における「一時的な戦力喪失」の解説
ロシア海軍はバルト海の艦艇で第二太平洋艦隊(日本での通称・バルチック艦隊)を編成する一方、既存の太平洋艦隊を第一太平洋艦隊として、新たにピョートル・ベゾブラーゾフ(ロシア語版)中将を第一太平洋艦隊司令官に任命した。すでに旅順には入れる状況ではなく、ベゾブラーゾフはウラジオストクに入った。 6月12日(5月31日)にベゾブラーゾフは自ら「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」を率いて出撃し朝鮮海峡へ向かった(イェッセンはウラジオストクに残った「ボガトィーリ」に将官旗を掲げた)。 6月15日、筑前沖で陸軍運送船和泉丸(3229トン)を撃沈。続いて近衛後備歩兵第一連隊などを載せた「常陸丸」(6175トン)と第二築城団司令部、攻城砲兵司令部などを載せた「佐渡丸」(6226または6626トン)を発見し攻撃し、「常陸丸」を沈めた(常陸丸事件)。佐渡丸も損傷させ停船させたが、艦隊は魚雷を打ち込んで去り「佐渡丸」は沈没を免れ長崎にたどり着いている。この後北に向かった艦隊は6月16日に舞鶴沖でイギリス船「アラントン」(4242または4253トン)を拿捕し19日または20日にウラジオストクに帰投した。またこの時期水雷艇も活動しており、6月16日に奥尻島沖で帆船「安静丸」(105トン)と「八幡丸」(136トン)を、17日に「清栄丸」(66トン)を沈め、19日に「博通丸」(69または111トン)を拿捕した。 7月17日、「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」が今度はイェッセンに率いられて出撃した。7月20日に津軽海峡を通って太平洋に出ると、同日汽船「高島丸」(318トン)、帆船「喜宝丸」(140トン)と「第二北生丸」(91トン)を沈め、イギリス船「サマーラ」と「共同運輸丸」を臨検した。艦隊は南下して7月22日にドイツ貨物船「アラビア」(2863トン)を拿捕。7月24日には伊豆半島沖に達し、イギリス汽船「ナイト・コマンダー」(4306トン)を沈めた。この船は日本向けの鉄道資材を積んでいた。この後艦隊は反転し、同日中にさらに帆船「自在丸」(199トン)と「福就丸」(130トン)を沈め、イギリス船「図南」を臨検した。翌日にはドイツ汽船テア(1613トン)を沈め、イギリス汽船「カルカス」(6748トン)を拿捕した。この後艦隊は7月30日に津軽海峡を通って8月1日にウラジオストクに帰投した。 1904年8月12日には、2日前に旅順艦隊がウラジオストクを目指し旅順を出港したという情報が寄せられた。ウラジオストク巡洋艦隊はその支援のためイェッセンが指揮する巡洋艦3隻、水雷艇3隻からなる分遣隊を編成し、ウラジオストクを出港した。旅順艦隊は出港同日に敗れ出撃すべきでは無かったが、当時の通信技術では不足で連絡が遅れたのである。8月14日には、蔚山沖で上村中将指揮下の第2艦隊と遭遇し戦闘となった(蔚山沖海戦)。ウラジオストク巡洋艦隊の士官と水兵たちは戦闘において非凡な技量と剛毅を示し、精度の高い射撃により日本側に損傷を与えたが、通商破壊を重視した3隻の装甲巡洋艦と対艦戦闘を重視した4隻の装甲巡洋艦という質と量の差を覆すことはできなかった。ウラジオストク艦隊の巡洋艦は攻防共に優れる砲塔を備えた艦ではなかったのである。「リューリク」は撃沈され、「ロシア」、「グロモボーイ」は重度の損傷を負い半年以上の修理が必要となった。これに対し日本側は多少の修理・補給のみで海峡警備に戻っていた。
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