一統の一和を懇望とは? わかりやすく解説

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一統の一和を懇望

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「一統の一和を懇望」の解説

元治元年1864年30歳 1月21日将軍家参内に病をおしてこれに従う。孝明天皇より将軍徳川家茂に勅を賜る。この勅には、国内の現状憂う心情や、将軍家茂を信頼し依頼し、容保など公武合体派藩主たちと協力して事に計るようにと書かれている。以下抜粋上下解体百姓苦しみ瓦解土崩の色をあらわし、これを思いて夜も眠れず。朕は汝を愛す。汝も朕を愛せよ。その親睦厚き薄き天下挽回成否に関係す。無謀征夷はじつに朕が好むところにあらず。然るゆえんの策略議して朕に奏せよ」 2月8日孝明天皇より「深秘宸翰」が届けられる。これはこの日の夜、野宮定功来て「容保つねに和歌を好む由が天皇耳に入り特別に御製を数首送る」と、一封の書を渡して帰っていった。感激した容保が開封してみると、御製ではなく手紙だった。内容には「密々書状遣わします。昨年来、京に滞まって、万々の精忠、深く感悦到りです。じつに容易ならざる時勢につけても、その方忠勤深く悦服深く頼みにしています…」といった調子書かれ長文の手紙で、「密々面会難しいので手紙にて…」といって別紙細々と容保に依頼するところを述べ、「今まで宮廷内の暴論がいかに自分意志ではないところで」行われてきたか説明しなにとぞ密の計略をもって私の心底貫徹しくれまいか」と訴えている。 2月10日上洛以来の功により、5万石を増封される。 2月11日陸軍総裁(のちに軍事総裁改め)に任じられる。これは長州征伐のための転任であり、京都守護職には松平春嶽任命された。するとさっそく天皇から手紙届き「容保が京都守護職辞めるのははなはだ残骸至り」と残念がり、慶喜からは「天下のことには替えられません」と言われても、天皇は「それにしても守護職免じる話は深く残骸に候」と繰り返し残念がり、「長州の件が済めば戻ってくれるだろうかそのように周旋できないだろうか、春嶽に相談してみようか」と迷いつつも、本当に容保に頼り切っている有様手紙行間溢れている。 2月12日参議就任の詔があったが、容保はこれを辞退する。容保は「私にいささか功ありとすればそれは全て藩祖保科正之公の故あってである。正之に贈賜下さりますように」と奉答した。20日重ねて恩命があったが、重ねて辞退している。これにより保科正之従三位追賞された。 2月16日、病の容態悪く辞退した幕府より召命がしきりに下るので、やむをえず抱きかかえられながら二条城登りその際家茂手ずから備前秀光の刀を賜り守護職労を労い現職軍事総裁勉励するように」と命じられる。しかしこれより病状悪化この後数十日の間起き上がることも出来なくなる。 2月18日会津国元の重臣たちに自身親書届ける。この親書には京都現状報告や、会津領内民衆困窮を心配する容保の心情、「会津海軍を持つように、財政やりくり倹約には特に気をつけるように」など、今後の方針国元方針などが細かく書かれ繰り言ながら…頼み入り候」と念を押して依頼している。またこの親書天皇より将軍家茂に賜った年始勅諚写し付けて、「この書状江戸藩邸蝦夷領内国元領内士分上のものには漏れなく見せそれ以下領民に至るまで下々も本文の趣意見せ、また聞かせるように」と依頼し会津気持ち一つにと願う容保の心情伺える。 2月24日幕府からの命により会津兵制革新軍備更張西洋式伝習する。 2月28日家臣小室当節秋月胤永らに命じて摂海砲台築造工事監督する。この日、容保は職の辞退願い出る。病の身で寝たきりのまま職を全うできず時を過ごすことを恐れたためであり、同時に時事意見建議した。しかし幕府慰め諭し、許さなかった。またこの頃会津家臣たちは容保が慶喜指揮を受けることについて「これが実に難儀切に憂慮である」と心配している。 4月7日京都守護職復職する。復職要望天皇のみならず幕府内にも多く板倉勝静からは「当時急務肥後殿の復職」、徳川茂承からは「皇国安危に関係仕り候」とあり、新選組至っては春嶽の支配下嫌がり容保の下で働きたい願ってやまないので、50日ぶりの復職となった。 しかしこの頃には病が重く食物は喉を通らず衰弱甚だしく医者も手をこまねいて術の施しようがなかった。家臣たちは皆呆然として明日はどうなるかと憂慮するのみで、「天朝幕府の寵命は感銘にたえないけれども、真にいかんともすることもできない」として職の辞退書面呈した書面には「たとえ家来ども力を合わせて周旋仕らせ候とも、行き届き見込みこれなく、かえって公辺御為筋に相成らず」とある。 4月14日幕府から命があり、辞職許されず。 4月17日事務渋滞恐れて重ねて心外千万ながら何とも致し方御座なく候」と辞職願い出る。しかし幕府懇切にさとして、あえて願い聞こうとしなかった。 4月21日、容保は朝廷より賜った横浜鎖港長門藩処置についての勅諚見て、「慄然として痛心にたえず、絶命重大、病気保養している時ではない、むしろ職に斃れて祖宗報ずべきだ」と決意守護職の命を拝した4月28日天皇将軍家への恩遇厚く公武一和結ばれつつあったが、参与となった雄藩諸侯幕府有司との間に溝があり、容保を困らせた。幕府有司としては旧来の権威こだわり諸侯声望上回るのを恐れ参与連中嫌悪し幕府の不利を謀るもののよう疑い権威失墜恐れた参与もまた幕府有司大勢に暗いことを侮り有司意見退けることが多くこのため大議のたびに議論の場紛然とした。これにより幕府側は江戸へ帰国謀り将軍家東帰につながった国内安定願った容保は愕然痛嘆するばかりであった5月6日将軍家は東帰の途に就き、容保は続けて京を任された。

※この「一統の一和を懇望」の解説は、「松平容保」の解説の一部です。
「一統の一和を懇望」を含む「松平容保」の記事については、「松平容保」の概要を参照ください。

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