一統の一和を懇望
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元治元年(1864年)30歳 1月21日、将軍家の参内に病をおしてこれに従う。孝明天皇より将軍徳川家茂に勅を賜る。この勅には、国内の現状を憂う心情や、将軍家茂を信頼し依頼し、容保など公武合体派の藩主たちと協力して事に計るようにと書かれている。以下抜粋「上下の解体、百姓の苦しみ、瓦解土崩の色をあらわし、これを思いて夜も眠れず。朕は汝を愛す。汝も朕を愛せよ。その親睦の厚き薄きが天下挽回の成否に関係す。無謀の征夷はじつに朕が好むところにあらず。然るゆえんの策略を議して朕に奏せよ」 2月8日、孝明天皇より「深秘の宸翰」が届けられる。これはこの日の夜、野宮定功が来て「容保つねに和歌を好む由が天皇の耳に入り、特別に御製を数首送る」と、一封の書を渡して帰っていった。感激した容保が開封してみると、御製ではなく手紙だった。内容には「極く密々に書状を遣わします。昨年来、京に滞まって、万々の精忠、深く感悦の到りです。じつに容易ならざる時勢につけても、その方の忠勤、深く悦服、深く頼みにしています…」といった調子で書かれた長文の手紙で、「密々の面会も難しいので手紙にて…」といって別紙に細々と容保に依頼するところを述べ、「今までの宮廷内の暴論がいかに自分の意志ではないところで」行われてきたか説明し「なにとぞ極密の計略をもって私の心底を貫徹してくれまいか」と訴えている。 2月10日、上洛以来の功により、5万石を増封される。 2月11日、陸軍総裁(のちに軍事総裁と改め)に任じられる。これは長州征伐のための転任であり、京都守護職には松平春嶽が任命された。するとさっそく天皇から手紙が届き「容保が京都守護職を辞めるのははなはだ残骸の至り」と残念がり、慶喜からは「天下のことには替えられません」と言われても、天皇は「それにしても守護職を免じる話は深く残骸に候」と繰り返し残念がり、「長州の件が済めば戻ってくれるだろうか、そのように周旋できないだろうか、春嶽に相談してみようか」と迷いつつも、本当に容保に頼り切っている有様が手紙の行間に溢れている。 2月12日、参議就任の詔があったが、容保はこれを辞退する。容保は「私にいささか功ありとすればそれは全て藩祖保科正之公の故あってである。正之に贈賜下さりますように」と奉答した。20日に重ねて恩命があったが、重ねて辞退している。これにより保科正之に従三位が追賞された。 2月16日、病の容態悪く、辞退したが幕府より召命がしきりに下るので、やむをえず抱きかかえられながら二条城に登り、その際家茂手ずから備前秀光の刀を賜り、守護職の労を労い「現職の軍事総裁も勉励するように」と命じられる。しかしこれより病状は悪化、この後数十日の間起き上がることも出来なくなる。 2月18日、会津国元の重臣たちに自身の親書を届ける。この親書には京都の現状の報告や、会津領内民衆の困窮を心配する容保の心情、「会津も海軍を持つように、財政のやりくり、倹約には特に気をつけるように」など、今後の方針や国元の方針などが細かく書かれ「繰り言ながら…頼み入り候」と念を押して依頼している。またこの親書に天皇より将軍家茂に賜った年始の勅諚の写しを付けて、「この書状、江戸藩邸・蝦夷領内・国元領内、士分以上のものには漏れなく見せ、それ以下、領民に至るまで下々にも本文の趣意を見せ、また聞かせるように」と依頼し、会津の気持ちを一つにと願う容保の心情が伺える。 2月24日、幕府からの命により会津の兵制を革新、軍備更張し西洋式を伝習する。 2月28日、家臣小室当節、秋月胤永らに命じて摂海の砲台築造工事を監督する。この日、容保は職の辞退を願い出る。病の身で寝たきりのまま職を全うできず時を過ごすことを恐れたためであり、同時に時事の意見を建議した。しかし幕府は慰め諭し、許さなかった。またこの頃、会津の家臣たちは容保が慶喜の指揮を受けることについて「これが実に難儀、切に憂慮である」と心配している。 4月7日、京都守護職に復職する。復職の要望は天皇のみならず幕府内にも多く、板倉勝静からは「当時の急務は肥後殿の復職」、徳川茂承からは「皇国の安危に関係仕り候」とあり、新選組に至っては春嶽の支配下を嫌がり容保の下で働きたいと願ってやまないので、50日ぶりの復職となった。 しかしこの頃には病が重く、食物は喉を通らず衰弱甚だしく、医者も手をこまねいて術の施しようがなかった。家臣たちは皆呆然として明日はどうなるかと憂慮するのみで、「天朝と幕府の寵命は感銘にたえないけれども、真にいかんともすることもできない」として職の辞退の書面を呈した。書面には「たとえ家来ども力を合わせて周旋仕らせ候とも、行き届き候見込みこれなく、かえって公辺御為筋に相成らず」とある。 4月14日、幕府から命があり、辞職は許されず。 4月17日、事務の渋滞を恐れて重ねて「心外千万ながら何とも致し方御座なく候」と辞職を願い出る。しかし幕府は懇切にさとして、あえて願いを聞こうとしなかった。 4月21日、容保は朝廷より賜った横浜鎖港と長門藩処置についての勅諚を見て、「慄然として痛心にたえず、絶命重大、病気保養している時ではない、むしろ職に斃れて祖宗に報ずべきだ」と決意、守護職の命を拝した。 4月28日、天皇の将軍家への恩遇は厚く公武一和が結ばれつつあったが、参与となった雄藩諸侯と幕府有司との間に溝があり、容保を困らせた。幕府有司としては旧来の権威にこだわり、諸侯の声望が上回るのを恐れ参与の連中を嫌悪し、幕府の不利を謀るもののように疑い、権威の失墜を恐れた。参与もまた幕府有司の大勢に暗いことを侮り、有司の意見を退けることが多く、このため大議のたびに議論の場は紛然とした。これにより幕府側は江戸への帰国を謀り、将軍家東帰につながった。国内の安定を願った容保は愕然痛嘆するばかりであった。 5月6日、将軍家は東帰の途に就き、容保は続けて京を任された。
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