いちげん‐きん【一弦琴/一×絃琴】
一絃琴
名称: | 一絃琴 |
ふりがな: | いちげんきん |
芸能工芸区分: | 芸能 |
種別: | 音楽 |
選択年月日: | 1955.03.19(昭和30.03.19) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 一絃琴は細長い板(胴)の上に一本の絃をはっただけの単純な楽器で、胴の表面には感所【かんどころ】を示すための一二の螺鈿または象牙製の印(徽【き】)がほどこされている。この楽器の伴奏で古今集等の和歌や催馬楽【さいばら】、神楽などの古歌その他古典を題材としたものが歌われる。 一絃琴の由来については、在原行平が須磨に流罪になったおり庇の板をもってこれを作った(このことから須磨琴ともいう。)との俗説もあるが、その形状は中国の琴に由来したものと考えられている。今日の一絃琴は、宝暦・明和の頃、河内の国金剛輪寺の僧覚峰【かくほう】が世に広めたのがはじめとされ、幕末の頃大坂で真鍋豊平が新曲を多く発表し、京・大坂を中心に一絃琴は隆盛をみた。明治になって東京にも普及したが、次第に衰微し、戦後は、高知の秋沢久寿栄、東京の山城一水、京都の倉知志ん、平野ヨシ等(いずれも故人)によって守られてきたが、現在は、これらの系譜に連なる人達が、東京、高知、京都、兵庫、神奈川などの地で一絃琴を伝承している。 一絃琴は、「清虚洞【せいきよどう】一絃琴譜」(徳弘太橆【たいむ】)、「一絃琴正曲譜」(島田勝子)、「藻汐草」その他の譜本の系列に大別できるが、幕末以後一絃琴が隆盛の地であった高知では、「一絃琴正曲譜」系の一絃琴が伝えられている。そこでの琴の奏法は、「清虚洞一絃琴譜」系が男性的なのに対して女性的であり、清音を尊ぶ一絃琴の本趣を守っている。 |
一絃琴
名称: | 一絃琴 |
ふりがな: | いちげんきん |
芸能工芸区分: | 芸能 |
種別: | 音楽 |
選択年月日: | 1957.03.30(昭和32.03.30) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 一絃琴は細長い板(胴)の上に一本の絃をはっただけの単純な楽器で、胴の表面には感所【かんどころ】を示すための一二の螺鈿または象牙製の印(徽【き】)がほどこされている。この楽器の伴奏で古今集等の和歌や催馬楽【さいばら】、神楽などの古歌その他古典を題材としたものが歌われる。 一絃琴の由来については、在原行平が須磨に流罪になったおり庇の板をもってこれを作った(このことから須磨琴ともいう。)との俗説もあるが、その形状は中国の琴に由来したものと考えられている。今日の一絃琴は、宝暦・明和の頃、河内の国金剛輪寺の僧覚峰【かくほう】が世に広めたのがはじめとされ、幕末の頃大坂で真鍋豊平が新曲を多く発表し、京・大坂を中心に一絃琴は隆盛をみた。明治になって東京にも普及したが、次第に衰微し、戦後は、高知の秋沢久寿栄、東京の山城一水、京都の倉知志ん、平野ヨシ等(いずれも故人)によって守られてきたが、現在は、これらの系譜に連なる人達が、東京、高知、京都、兵庫、神奈川などの地で一絃琴を伝承している。 一絃琴は、「清虚洞【せいきよどう】一絃琴譜」(徳弘太橆【たいむ】)、「一絃琴正曲譜」(島田勝子)、「藻汐草」その他の譜本の系列に大別できるが、幕末以後一絃琴が隆盛の地であった高知では、「一絃琴正曲譜」系の一絃琴が伝えられている。そこでの琴の奏法は、「清虚洞一絃琴譜」系が男性的なのに対して女性的であり、清音を尊ぶ一絃琴の本趣を守っている。 |
一絃琴
名称: | 一絃琴 |
ふりがな: | いちげんきん |
芸能工芸区分: | 芸能 |
種別: | 音楽 |
選択年月日: | 1961.03.31(昭和36.03.31) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 一絃琴は細長い板(胴)の上に一本の絃をはっただけの単純な楽器で、胴の表面には感所【かんどころ】を示すための一二の螺鈿または象牙製の印(徽【き】)がほどこされている。この楽器の伴奏で古今集等の和歌や催馬楽【さいばら】、神楽などの古歌その他古典を題材としたものが歌われる。 一絃琴の由来については、在原行平が須磨に流罪になったおり庇の板をもってこれを作った(このことから須磨琴ともいう。)との俗説もあるが、その形状は中国の琴に由来したものと考えられている。今日の一絃琴は、宝暦・明和の頃、河内の国金剛輪寺の僧覚峰【かくほう】が世に広めたのがはじめとされ、幕末の頃大坂で真鍋豊平が新曲を多く発表し、京・大坂を中心に一絃琴は隆盛をみた。明治になって東京にも普及したが、次第に衰微し、戦後は、高知の秋沢久寿栄、東京の山城一水、京都の倉知志ん、平野ヨシ等(いずれも故人)によって守られてきたが、現在は、これらの系譜に連なる人達が、東京、高知、京都、兵庫、神奈川などの地で一絃琴を伝承している。 一絃琴は、「清虚洞【せいきよどう】一絃琴譜」(徳弘太橆【たいむ】)、「一絃琴正曲譜」(島田勝子)、「藻汐草」その他の譜本の系列に大別できるが、幕末以後一絃琴が隆盛の地であった高知では、「一絃琴正曲譜」系の一絃琴が伝えられている。そこでの琴の奏法は、「清虚洞一絃琴譜」系が男性的なのに対して女性的であり、清音を尊ぶ一絃琴の本趣を守っている。 |
一絃琴
名称: | 一絃琴 |
ふりがな: | いちげんきん |
芸能工芸区分: | 芸能 |
種別: | 音楽 |
選択年月日: | 1961.03.31(昭和36.03.31) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 一絃琴は細長い板(胴)の上に一本の絃をはっただけの単純な楽器で、胴の表面には感所【かんどころ】を示すための一二の螺鈿または象牙製の印(徽【き】)がほどこされている。この楽器の伴奏で古今集等の和歌や催馬楽【さいばら】、神楽などの古歌その他古典を題材としたものが歌われる。 一絃琴の由来については、在原行平が須磨に流罪になったおり庇の板をもってこれを作った(このことから須磨琴ともいう。)との俗説もあるが、その形状は中国の琴に由来したものと考えられている。今日の一絃琴は、宝暦・明和の頃、河内の国金剛輪寺の僧覚峰【かくほう】が世に広めたのがはじめとされ、幕末の頃大坂で真鍋豊平が新曲を多く発表し、京・大坂を中心に一絃琴は隆盛をみた。明治になって東京にも普及したが、次第に衰微し、戦後は、高知の秋沢久寿栄、東京の山城一水、京都の倉知志ん、平野ヨシ等(いずれも故人)によって守られてきたが、現在は、これらの系譜に連なる人達が、東京、高知、京都、兵庫、神奈川などの地で一絃琴を伝承している。 一絃琴は、「清虚洞【せいきよどう】一絃琴譜」(徳弘太橆【たいむ】)、「一絃琴正曲譜」(島田勝子)、「藻汐草」その他の譜本の系列に大別できるが、幕末以後一絃琴が隆盛の地であった高知では、「一絃琴正曲譜」系の一絃琴が伝えられている。そこでの琴の奏法は、「清虚洞一絃琴譜」系が男性的なのに対して女性的であり、清音を尊ぶ一絃琴の本趣を守っている。 |
一絃琴
名称: | 一絃琴 |
ふりがな: | いちげんきん |
芸能工芸区分: | 芸能 |
種別: | 音楽 |
選択年月日: | 1977.06.01(昭和52.06.01) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 一絃琴は細長い板(胴)の上に一本の絃をはっただけの単純な楽器で、胴の表面には感所【かんどころ】を示すための一二の螺鈿または象牙製の印(徽【き】)がほどこされている。この楽器の伴奏で古今集等の和歌や催馬楽【さいばら】、神楽などの古歌その他古典を題材としたものが歌われる。 一絃琴の由来については、在原行平が須磨に流罪になったおり庇の板をもってこれを作った(このことから須磨琴ともいう。)との俗説もあるが、その形状は中国の琴に由来したものと考えられている。今日の一絃琴は、宝暦・明和の頃、河内の国金剛輪寺の僧覚峰【かくほう】が世に広めたのがはじめとされ、幕末の頃大坂で真鍋豊平が新曲を多く発表し、京・大坂を中心に一絃琴は隆盛をみた。明治になって東京にも普及したが、次第に衰微し、戦後は、高知の秋沢久寿栄、東京の山城一水、京都の倉知志ん、平野ヨシ等(いずれも故人)によって守られてきたが、現在は、これらの系譜に連なる人達が、東京、高知、京都、兵庫、神奈川などの地で一絃琴を伝承している。 一絃琴は、「清虚洞【せいきよどう】一絃琴譜」(徳弘太橆【たいむ】)、「一絃琴正曲譜」(島田勝子)、「藻汐草」その他の譜本の系列に大別できるが、幕末以後一絃琴が隆盛の地であった高知では、「一絃琴正曲譜」系の一絃琴が伝えられている。そこでの琴の奏法は、「清虚洞一絃琴譜」系が男性的なのに対して女性的であり、清音を尊ぶ一絃琴の本趣を守っている。 |
一絃琴
名称: | 一絃琴 |
ふりがな: | いちげんきん |
芸能工芸区分: | 芸能 |
種別: | 音楽 |
選択年月日: | 1980.04.04(昭和55.04.04) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 一絃琴は細長い板(胴)の上に一本の絃をはっただけの単純な楽器で、胴の表面には感所【かんどころ】を示すための一二の螺鈿または象牙製の印(徽【き】)がほどこされている。この楽器の伴奏で古今集等の和歌や催馬楽【さいばら】、神楽などの古歌その他古典を題材としたものが歌われる。 一絃琴の由来については、在原行平が須磨に流罪になったおり庇の板をもってこれを作った(このことから須磨琴ともいう。)との俗説もあるが、その形状は中国の琴に由来したものと考えられている。今日の一絃琴は、宝暦・明和の頃、河内の国金剛輪寺の僧覚峰【かくほう】が世に広めたのがはじめとされ、幕末の頃大坂で真鍋豊平が新曲を多く発表し、京・大坂を中心に一絃琴は隆盛をみた。明治になって東京にも普及したが、次第に衰微し、戦後は、高知の秋沢久寿栄、東京の山城一水、京都の倉知志ん、平野ヨシ等(いずれも故人)によって守られてきたが、現在は、これらの系譜に連なる人達が、東京、高知、京都、兵庫、神奈川などの地で一絃琴を伝承している。 一絃琴は、「清虚洞【せいきよどう】一絃琴譜」(徳弘太橆【たいむ】)、「一絃琴正曲譜」(島田勝子)、「藻汐草」その他の譜本の系列に大別できるが、幕末以後一絃琴が隆盛の地であった高知では、「一絃琴正曲譜」系の一絃琴が伝えられている。そこでの琴の奏法は、「清虚洞一絃琴譜」系が男性的なのに対して女性的であり、清音を尊ぶ一絃琴の本趣を守っている。 |
一弦琴
(一絃琴 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/22 04:40 UTC 版)
一弦琴(いちげんきん、一絃琴)とは、細長い木製の胴に一本の弦を張った琴で、弦楽器の一種[1]。須磨琴・独弦琴・板琴などともいう[1][2]。
一般的なものは、胴の長さは110cmくらい、幅は頭部で11cm・尾部で8cmくらい、中間に2か所のくびれがある。胴の表面部には徽とよばれる12個の目印がはめ込まれている。弦は絹糸で作られている[1]。
奏者は左側に尾部を見るようにして頭部の横側に正座して演奏を行う。元々は膝の上に琴を載せて演奏していたが、後には台の上に置いて演奏するようになった。右手人差指に竜爪(短管)と呼ばれる義甲を、左手中指に転管(長管)という管をそれぞれはめて、転管で徽がはめられている感所(勘所)を抑えながら、竜爪で撥弦(弦をはじく)して演奏する。竜爪と転管は、8cmくらいの竹もしくは象牙の管の中間から少し外れた場所から斜め切りにし、短い方を竜爪に、長い方を転管にして用いる[1]。
日本における一弦琴の由来は諸説あって不明である[2]。『日本後紀』によれば、延暦18年(799年)7月のこととして三河国に流れ着いた天竺の人が一弦琴をひいたのが最古の記録である[1]が、インドのヴィーナに近いものであったと推定される[1][2]。「一弦琴の祖」と称される須磨琴については、幕末に松平四山が著した『当流板琴大意抄』によれば、平安時代(9世紀)に在原行平が須磨に流された際に庇の板で琴を作ってつれづれを慰めたとする説を載せているが[1]、同時代の富士谷御杖が著した『北辺随筆』ではこの説を否定している[1]。
中根淑の説では今日知られる一弦琴は寛文年間(17世紀)に中国(清)から伝えられた比較的新しいもので[2]、宝暦から明和年間の頃(18世紀)に河内国金剛輪寺にいた覚峯(麦飯真人と号する)という僧侶が普及させ、中山信敬(備前)・中川蘭窓ら弟子に伝えられた[1][2]。幕末から明治にかけて大坂で真鍋豊平やその門人である土佐(高知)の徳弘太橆や東京の富田豊春が活躍して隆盛となり[2]、志士たちからは一弦琴の練習を口実に密会を重ねたとされる[1]。だが、その隆盛も短い間であり[1]、高雅で繊細な楽曲に向いていたが余りに地味であったため[1]、明治末期以降衰微して、現在わずかに行われるのみである[2]。
脚注
参考文献
- 蒲生郷昭「一絃琴」(『国史大辞典 1』(吉川弘文館、1979年) ISBN 978-4-642-00501-2)
- 三谷陽子「一弦琴」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)ISBN 978-4-582-13101-7)
一絃琴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:03 UTC 版)
モノコード系のシンプルな楽器であり、板琴、須磨琴などの別名がある。日本には江戸時代初期に中国大陸より伝来し、河内国の僧覚峰律師により世に広まった。幕末に土佐藩士のあいだで流する。初期の一絃琴は一枚板に弦を張った構造だったが、最近のものは箱状になっている。一絃琴のために作曲された曲を「本曲」といい、全体に緩やかな音楽が特徴である。
※この「一絃琴」の解説は、「琴」の解説の一部です。
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