政府の再編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:03 UTC 版)
「大久保政権」も参照 参議の大半を失った政府は再編成を余儀なくされた。10月24日、大久保は各省の卿が参議を兼任するべきと主張し、10月25日には外務卿寺島宗則と工部卿伊藤博文と海軍卿勝安芳が参議となり、大木喬任は司法卿を兼ねた。これは大久保の進言を岩倉が受け入れたためである。しかし木戸は大蔵卿を兼ねるようにという岩倉の要請を、病気を理由に拒絶している。また三条は静養後、一旦太政大臣を辞職してから政府に復帰することを求めていたが許されず、12月25日には辞表も却下され、太政大臣の職務に復帰している。 大久保は「立憲政体に関する意見書」を提出し、将来の政府構想を語っている。また強大な権限を持つ官庁内務省を設置し、自ら内務卿となることで、強い権力を握ることとなる。一方で木戸は病気が悪化しつつあり、指導力を示せなくなりつつあった。このため政変の中で伊藤博文が見せた動きは長州閥内でも評価され、次代の実力者として認められるようになる。また、木戸が西郷と親しかった山縣の参議就任に難色を示す一方で、大久保が山縣を参議に就任させ、軍の混乱を決着させる政治力を見た伊藤は次第に木戸から離反して大久保に接近し、大久保による専制が確立していくことになる。 明治7年(1874年)に台湾出兵に反対した木戸は政府を去ることとなる。その後明治8年(1875年)の大阪会議で木戸・板垣退助の参議復帰が合意されたが、まもなく決裂し、明治11年(1878年)5月14日にの紀尾井坂の変まで大久保主導による政治運営が続くことになる。 また大久保と西郷の決裂は藩閥の分裂をもたらした。政変で敗れた西郷隆盛・江藤新平は後に士族反乱を起こし、板垣退助は一時復帰したものの、後に自由民権運動のもとに政府の敵対者となる。
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