政変の勃発
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前述の四侯会議における主要な政治的争点は、幕府(文久遣欧使節)が結んだロンドン覚書に基づく兵庫開港問題であった。この国際合意上の開港期日はグレゴリオ暦1868年元日(慶応3年12月7日)である。慶応3年10月の大政奉還により雄藩側の政治的正統性が失われた状態で、兵庫開港が予定通り実行されることは、慶喜の政治的復権を内外に強く印象付けることになる。雄藩側としては、政変を起こすのであれば、少なくとも1868年1月1日(慶応3年12月7日)から遠く遅れない時期に起こさなければ、時期を逸することになる。そこで、具体的な政変の実行について、大久保らは当初、開港翌日の慶応3年12月8日(1868年1月2日)を予定していた。しかし土佐の後藤象二郎から2日延期を要請され、やむなく1日延期して翌慶応3年12月9日(1868年1月3日)に決行することとした。その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めた。こうして、5藩の軍事力を背景とした政変が実行に移されることとなるが、政変参加者の間において、新政府からの徳川家の排除が固まっていた訳ではない。越前藩・尾張藩ら公議政体派は徳川家をあくまで諸侯の列に下すことを目標として政変に参加しており、実際に親藩である両藩の周旋により年末には慶喜の議定就任が取り沙汰されるに至っている。 また、大久保らは政変にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は政変3日前の慶応3年12月6日(1867年12月31日)に越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出なかった。兵力の行使は新政府を樹立させる政変に際し、付随して起こることが予想された不測の事態に対処するためのものであり、徳川家を滅ぼすためのものではなかった。 慶応3年12月8日(1868年1月2日)夕方から翌朝にかけて摂政二条斉敬が主催した朝議では、長州藩主・毛利敬親、広封父子の官位復旧と入京の許可、岩倉ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉らは、天皇出御のうえ御所の御学問所に参内して「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた。
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政変の勃発
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「2013年エジプトクーデター」の記事における「政変の勃発」の解説
2013年7月3日、48時間の期限切れを受け、カイロ市内で、エジプト軍による軍事行動が展開された。シーシー国防大臣は国営テレビで演説を行い、ムルシー政権を批判。憲法停止により、ムルシーから大統領権限を剥奪したと発表。速やかに大統領選挙や議会選挙、実務者内閣の組閣を行うことも表明し、それまでの間エジプトを統治する、アドリー・マンスール最高憲法裁判所長官を大統領とした暫定政権を樹立するとも発表した。大統領が最高裁判所裁判官から選ばれたことは、新憲法に対し違憲判決を出そうとした司法権との間で軋轢を生じさせたムルシー政権の轍を踏むことを避ける狙いがあるとされる。このテレビ演説には、反政府勢力の代表であるモハメド・エルバラダイ、コプト正教会教皇、またイスラム教スンナ派の最高権威機関アズハルの幹部なども同席し、反政府勢力のほか、司法権、宗教的権威、キリスト教徒など多くの勢力からムルシー政権が反発を受けていたことを象徴した。 エジプト初の自由選挙による文民政権は、わずか1年でその幕を下ろすこととなり、7月4日にマンスール暫定大統領が就任の宣誓を行った。7月9日にはリベラル派経済学者のハーゼム・エル=ベブラーウィーが暫定首相に任命され、ムスリム同胞団系の自由と公正党及び厳格派イスラーム主義のヌール党に対して入閣要請を行った。しかし、ムスリム同胞団側は「クーデターを行ったものたちとは取引しない。」として要請を拒否。ヌール党も入閣を拒んだ。結果として、新政権から宗教勢力が排除されることとなり、これらの勢力の間で不満が醸成されることとなった。ムルシーと側近は軍により身柄を拘束され、大統領警護隊の本部に軟禁されたのち、ムルシーは国防省に移送された。 7月16日にはハーゼム・エル=ベブラーウィー暫定内閣が発足した。暫定内閣では、シーシー国防大臣及びムハンマド・イブラヒーム内務大臣ら7人がムルシー政権から留任。さらにシーシーは新たに第一副首相を兼務することになったが、これは治安維持強化に努め、新政権から排除されたイスラム主義勢力が暴力的行動を取ることを防ぐ目的とされた。また、外務大臣には駐日大使や駐米大使を歴任した職業外交官のナビール・ファフミー(英語版)を、財務大臣には20年間の世界銀行勤務経験があるエコノミストのアハマド・ガラールを登用するなど、実務家が多く登用された。特に、危険水準にある外貨準備など、経済的混乱へ対応するため、首相を始め、リベラル派経済学者が多く登用された。また、女性とキリスト教徒も、それぞれエジプト政治史上最多となる3人が入閣した。
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