政変の事後処理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:40 UTC 版)
紀元前180年11月16日、すなわち10月1日、劉恒は、皇位を継承し、孝文皇帝(文帝)となった。劉恒が皇帝に擁立されて4か月後、大臣は、皇太子の冊立を求めた。皇太子冊立の朝議において、大臣が最初に否定したのは、皇位継承問題の際に最も開放的であり、最も政治闘争を引き起こす、禅譲、すなわち、「天下に賢聖・有徳の者を広く求め、天下を譲る」ことであった。大臣が次に否定したのは、劉氏宗族の範囲の諸侯王と宗親、特に、文帝の叔父である楚王劉交、従兄である呉王劉濞と、弟である淮南王劉長であった。最後に、大臣は、高祖の権威を強調して、「立嗣必子」(皇太子は必ず皇帝の子でなければならない)の原則を強調した。文帝は、ついに受け入れ、劉啓(8歳)を皇太子に冊立した。 劉啓は、文帝の長子ではなかった。文帝が代王の時、既に代王妃(中国語版)があり、王妃は、3人又は4人の子を産んだので、劉啓は、文帝の嫡子ではなかった。『史記』によれば、代王妃は、文帝が即位になる前に死亡したが、死因は不明である。代王妃の3人又は4人の子もまた、文帝が皇太子を冊立する前に「病死した」ので、劉啓は、文帝の現存する子の中で最年長となった。呂氏一族誅滅の政変時に挙兵した楚王劉交と斉王劉襄もまた、皇太子が冊立されて間もなく死亡した。文帝は、劉章と劉興居が劉襄を擁立しようとしていた計画を知った後、大臣らと約束した通りに、彼らを趙王・梁王に封じず、城陽王・済北王に封じた。間もなく、劉章は死亡し、劉興居は謀反して殺害された。 劉啓が皇太子に冊立された2カ月後、文帝は、劉啓の生母の竇姫を皇后に冊立した。
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