4ケシク輪番制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:40 UTC 版)
モンゴル帝国及び大元ウルスにおいて、ケシクは4班に分かれて各班が3日ごとに交代するよう定められていた。『元史』には以下のように記されている: 四怯薛:太祖チンギス・カンの功臣であるボロクル(博爾忽)・ボオルチュ(博爾朮)・ムカリ(木華黎)・チラウン(赤老温)らは時にドルベン・クルウド(掇里班曲律=四駿)と呼ばれ、また「四傑」とも称された。チンギス・カンは彼等に命じて「ケシク(怯薛)」の長官を務めさせた。「ケシク(怯薛)」とは、中国で言うところの番直・宿衛である。宿衛は三日ごとに交代し、申酉戌の日はボロクルが担当してこれを「第一ケシク」、即ちイェケ・ケシク(也可怯薛)と呼んだ。ボロクル家は早くに絶えてしまったため……チンギス・カンは自らの名分でこれを統領した。「イェケ(也可=Yeke)」というのは、カアン自らが統領するところからついた名称である。亥子丑の日はボオルチュが担当してこれを「第二ケシク」と呼んだ。寅卯辰日の日はムカリが担当してこれを「第三ケシク」と呼んだ。巳午未日の日はチラウンが担当してこれを「第四ケシク」と呼んだ。チラウンの後裔は途絶えてしまったため、その後ケシクは常に右丞相が担当した。(四怯薛:太祖功臣博爾忽・博爾朮・木華黎・赤老温、時号掇里班曲律、猶言四傑也。太祖命其世領怯薛之長。怯薛者、猶言番直宿衛也。凡宿衛、毎三日而一更。申酉戌日、博爾忽領之、為第一怯薛、即也可怯薛。博爾忽早絶、太祖命以別速部代之、而非四傑功臣之類、故太祖以自名領之。其云也可者、言天子自領之故也。亥子丑日、博爾朮領之、為第二怯薛。寅卯辰日、木華黎領之、為第三怯薛。巳午未日、赤老温領之、為第四怯薛。赤老温後絶。其後怯薛常以右丞相領之。) — 『元史』巻99兵志2 このように、チンギス・カンの功臣として著名である「四駿」とその子孫が「ケシク4班」の長官を務めるという制度は概ね大元ウルス末期まで代々続いた。ただ、この『元史』の記述はボロクル家とチラウン家の記述を逆にしており、実際にはボロクル家が元代中期まで「第四ケシク」を担当しており、元代末期に至って断絶して他家が担当するようになった。一方チラウン家はすぐに断絶しており、このため元代を通じて「第一ケシク」は「イェケ・ケシク」の名前でカアンに直属することとなった。当初の原則ではボロクル家=第一ケシク、チラウン家=第四ケシクであったのがチラウン家の断絶によってボロクル家が第四ケシクを担当するようになり、大元ウルス末期になってボロクル家もまた断絶したことから両家を混同するようになってしまったのだろう。 4ケシクの長官はモンゴル帝国の宮廷において絶大な影響力を有し、高官中の高官が務めるのが常であった。特に大元ウルスにおいては、ケシク長は中央の三代官署たる中書省・枢密院・御史台のトップ(中書右丞相・知枢密院事・御史大夫)を兼ねるのが通例であった。一方、ケシクは時のカアンとの関係が密接であるため政変の影響を受けやすく、仁宗政権によって左遷させられたワイドゥ、南坡の変にてカアンとともに暗殺されてしまったバイジュなどがいた。このような政変の中でフーシン部ボロクル家は大元ウルス末期に断絶してしまい、右丞相トクトらがこれに代わる事態となった。 前述したように大元ウルスの命令文にはケシク長の名も記されるため、どのような人物がケシク長を務めていたかある程度は復元可能である。ただ、第一ケシクのみはカアンに直属していたためにケシク長は「イェケ(也可)」としか記されず、月海・尚家奴・孛羅といった人物が第一ケシクではないかと推測されるのみである。
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