名誉革命:寛容法とカトリックの排除
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「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の記事における「名誉革命:寛容法とカトリックの排除」の解説
1685年、チャールズ2世が死去し、ヨーク公がカトリックの国王ジェームズ2世として即位した。1687年、王は信仰自由宣言(英語版)を出した。ジェームズ2世の背後には、ユグノーを弾圧するフランスのルイ14世がいた。1688年4月、王は2度目の信仰自由宣言を出したが、宣言を朗読しなかったカンタベリー大主教ら7人の主教を投獄した。11月、ホイッグとトーリー両党は提携して、オランダ総督ウィレムに武力による解放を招請し、総督は清教徒の保護者としてイングランドに上陸した。しかし、王は軍がほとんど戦意を持たないことを知って、フランスへ亡命した(名誉革命)。 議会は王位空白を宣言し、法と自由を明記した権利宣言を出した。1689年、オランダ総督ウィレムはウィリアム3世としてイングランド王に即位し、権利の章典と寛容法(英語版)が制定された。これは清教徒革命以来の王と議会の対立の決着であり、以後、名誉革命体制は100年以上続いた。 権利章典は議会主権であり、王は「議会の中の国王」とする立憲君主制の原則が確立したが、王位継承者からカトリックが排除され、1701年の王位継承法でも明文化された。背後には、フランスへの脅威があったとされる。 寛容法、正式名「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」では、三位一体の承認と王への忠誠の宣誓を条件として非国教徒が容認された。ただし、カトリック教徒や無神論者は除外された。非国教徒は自由教会を創設した。 審査法や自治体法などで、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定がされ、1828年の審査法廃止まで続いた。 植民地では1691年の特許状で、カトリックを除く宗派に「良心の自由」を認めた。 カトリック教徒の宗教的・政治的自由が正式に承認されたのは、1801年のアイルランド併合の際に解放が約束されて以降のオコンネルの運動による1829年のカトリック教徒解放令であった。カトリック差別の背後には、フランスへの脅威やアイルランドへの敵視があったと見られている。
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