名誉革命以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/22 02:00 UTC 版)
「ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)」の記事における「名誉革命以後」の解説
1688年、ジェームズ2世に反感を抱いた貴族達の招聘で、ジェームズ2世の甥で娘メアリーの夫でもあるオランダ総督ウィレム3世が上陸するとイングランド貴族達は浮き足立ち降伏する者が後を絶たなかった。甥のコーンベリー子爵エドワード・ハイド(後の第3代クラレンドン伯)は軍勢を引き連れてオランダ軍に降伏、兄がウィレム3世に寝返った後もロチェスターはジェームズ2世の元に留まり、ロンドンからジェームズ2世が亡命、失敗して捕虜になると貴族達を集めてロンドンに暫定政権を発足させ治安維持に尽くした。地方に対してはオランダ軍との交戦禁止及び武装解除を命令、ウィレム3世が要求した自由な議会開催に向けて努力することを表明してウィレム3世を出迎えた。 ジェームズ2世がフランスへ亡命し名誉革命が成功を収め、翌1689年に議会が開かれると次の王位をどうすべきか議論が行われ、ウィレム3世かメアリーをジェームズ2世の摂政とするトーリー党の提案に賛成、ウィレム3世とメアリーを王とする提案には反対したが、後者が採用されウィリアム3世とメアリー2世が即位すると忠誠を誓い、枢密院の一員として政務を預かった。1700年にアイルランド総督に任命されたが、任地には行かず国教会の擁護を唱えて非国教徒の公職排除を強化する便宜的国教徒禁止法を提出、ノッティンガム伯爵ダニエル・フィンチと共に急進派としてトーリー党の政策実現を訴えたため、穏健派のゴドルフィンとアン女王から疎まれ1703年に罷免され下野、1706年にホイッグ党政権が出来ると枢密院からも排除された。 下野した後は政府批判に回り国教会が非国教徒への寛容により危機にあると訴え、スペイン継承戦争で大陸派兵を行うホイッグ政権に反対してスペインを始めとする海外派兵を主張して与党と対立したが、やがて元閣僚で穏健派のロバート・ハーレーに協力、1710年にハーレーの尽力でトーリー党が与党になると枢密院議長になり、翌1711年に大蔵卿となったハーレーがヘンリー・シンジョンとの対抗から協力を持ちかけるとハーレーを支援したが、同年5月に70歳で死去。 ロチェスター伯位は息子のヘンリー・ハイドが継承、ヘンリーは1723年に従兄のエドワード・ハイドが子の無いまま亡くなった後にクラレンドン伯位も継承したが、1753年に死去すると爵位は消滅、ヘンリーの孫娘の夫トマス・ヴィリアーズが新設の形でクラレンドン伯位を受け継いだ。
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