佐竹義胤とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 佐竹義胤の意味・解説 

佐竹義胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/31 13:45 UTC 版)

 
佐竹義胤
時代 鎌倉時代前期
生誕 安貞元年(1227年
死没 弘安元年4月22日1278年5月15日
墓所 茨城県常陸太田市の勝楽寺(正宗寺)
官位 讃岐守、常陸介
幕府 鎌倉幕府
氏族 佐竹氏
父母 父:佐竹長義、母:宍戸家周娘
兄弟 義胤・伊豆王丸・国井弘義室など女子4人
岩崎氏
佐竹行義・小川義綱(宗義)・稲木義信(義貞)・豊間義照(義煕)・高部景義
テンプレートを表示

佐竹 義胤(さたけ よしたね、安貞元年(1227年) - 弘安元年4月22日1278年5月15日[1][2])は、鎌倉時代の武将で、常陸佐竹氏6代当主。5代当主佐竹長義の長男。母は宍戸家周の娘。讃岐守・常陸介。

略歴

  • 常陸の他、今のいわき市付近を支配していた。義胤は建治2年(1276年)に稲荷山松吟寺(しょうぎんじ。今の常陸大宮市)を建立したとされる。

子孫

  • 家督は長男の行義が継いだ。次男(四男とも)の三郎義綱(宗義)は地元の豪族で母方の親族である岩崎氏(岩箇崎氏とも[2])の女を娶り、陸奥国岩城郡小川郷(いわき市)に住み、小川又二郎大和守と名乗ったという。三男は義信(義貞)で、養子に稲木宮内大輔義繁がいる。四男は義照(義煕)も岩城郡豊間(いわき市豊間)に住み、豊間彦四郎と名乗る。五男は高部五郎景義。

脚注

  1. ^ 正応2年(1289年)説もある。「佐竹系譜」より
  2. ^ a b 寛政重修諸家譜』巻第百二十九

出典




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐竹義胤」の関連用語

佐竹義胤のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐竹義胤のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの佐竹義胤 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS