相馬徳胤とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 相馬徳胤の意味・解説 

相馬徳胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:44 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
相馬 徳胤
時代 江戸時代
生誕 元禄15年2月23日1702年3月21日
死没 宝暦2年5月13日1752年6月24日
改名 幼名:鍋千代、菊千代
別名 通称:内膳
戒名 洞嶽院殿別宗覚天大居士
墓所 福島県南相馬市小高区 同慶寺
官位 従五位下因幡守
相馬中村藩世子
氏族 相馬氏
父母 父:相馬叙胤、母:(品姫)相馬昌胤の娘
養父:相馬尊胤
兄弟 次郎、圓壽丸、徳胤
内藤弌信の娘(内藤信輝の養女)おそよの方、継室:浅野吉長の娘
正千代、相馬恕胤
テンプレートを表示

相馬 徳胤(そうま のりたね)は、相馬中村藩6代藩主・相馬叙胤の三男。子は相馬恕胤(次男)。従五位下、因幡守。幼名は鍋千代、菊千代、通称は内膳。

経歴

誕生してまもなく実兄が亡くなったため三男ながら嫡男となる。1702年(元禄15年)4月には幼名を菊千代に改めた。宝永5年(1708年)12月3日、陸奥中村藩主相馬尊胤の養子となる。正徳4年(1714年)7月21日、将軍徳川家継に御目見する。享保元年(1715年)12月18日、従五位下因幡守に叙任する。享保9年(1724年)に内藤弌信の娘(内藤信輝の養女)・おそよの方と結婚するものの、享保14年(1729年)に子どもが無いまま先立たれた。享保15年、秋田藩主佐竹義峯から養子縁組を申し込まれるものの、養父尊胤は断っている。享保16年(1731年)に浅野吉長の娘と再婚し、嫡男・正千代が生まれた(ただし早世)。その後、側室との間に次男・恕胤が生まれた。

宝暦2年(1752年)、家督相続以前に死去し、8代藩主には次男・恕胤が就いた。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「相馬徳胤」の関連用語

相馬徳胤のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



相馬徳胤のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの相馬徳胤 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS