佐竹氏への出奔と久保田藩士としての晩年
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「国分盛重」の記事における「佐竹氏への出奔と久保田藩士としての晩年」の解説
盛重は、慶長元年(1596年)か慶長4年(1599年)に伊達家を出奔した。原因動機は不明だが、処遇に不満を抱いた家臣の出奔はこの頃珍しいことではなく、伊達家からも他に遠藤宗信と伊達成実が出ている。 盛重は甥の佐竹義宣のもとに走り、その家臣になった。佐竹家中では侍大将として遇され一族の席を与えられ、島崎城を与えられた。この頃盛重は三河守を称した。 慶長5年(1602年)、佐竹氏の転封に従って秋田に移り、1000石と横手城を与えられて秋田伊達氏の祖となった。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に従軍し、今福の戦いで奮戦したとされる。翌年の夏の陣では病のために従軍しなかった。 元和元年(1615年)7月15日、死去。享年63。養子の伊達宣宗(佐竹義久の子)が跡を継いだ。仙台藩に残留した男子のうち一人は、国分の旧家臣古内氏の養子となった。伊達忠宗の重臣となった古内重広である。
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