佐竹義宗による強奪
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平家政権下の永暦2年(1161年)正月、佐竹義宗(佐竹隆義の次兄)が相馬御厨を寄進するという事件が起きる。 佐竹義宗が前下総守藤原親通が持っていた新券(証文)を親通の次男・親盛から入手し、奪いとったのである。佐竹義宗の寄進状には「自国人平常晴今常澄父也、手譲平常重并嫡男常胤、依官物負累、譲国司藤原親通朝臣、彼朝臣譲二男親盛朝臣、而依匝瑳北条之由緒、以当御厨公験、所譲給義宗也、然者父常晴長譲渡他人畢所也」とある。 これを知った千葉常胤も翌2月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。そもそも藤原親盛から譲り受けた新券(証文)はとっくに無効になっていたはずだが、藤原親盛の娘は平重盛の側室だった。 伊勢神宮も常胤に味方しなかった。最初こそ、常胤側の領主となっていた禰宜荒木田明盛(正富の一族)と義宗側の領主となっていた禰宜度会彦章の対立が生じた。しかし佐竹義宗が伊勢神宮に供祭料を負担して寄進状の約束を果たしたことが評価され、長寛元年(1163年)に佐竹義宗の寄進を是とする宣旨が出された。永万2年6月18日には、常胤側の荒木田明盛が度会彦章に度会彦章の主張を認めることを示す契状を提出、仁安2年6月14日付で和与状が作成された。 和与の成立は決定的だった。当時において和与とは、合意に基づく所領や所職等権利の譲与を指しており、和与に基づく権利の移転は悔返を認めない(『法曹至要抄』)と言う法理があった。この和与によって度会彦章と彼が下司とした佐竹義宗の勝訴が確定。伊勢神宮の権威を利用した法律上の闘争の道は閉ざされた。 後に佐竹義宗は強引に相馬御厨全域を支配した。これに対して、千葉氏や上総氏は大いに反発した。『源義宗寄進状』には「常澄常胤等何故可成妨哉、是背法令、大非常之上、大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎従等 凡不可在王土者也」とある。 一方、上総氏は訴訟の当事者ではなかったために、相馬御厨に関する権利を完全に否定された訳ではなかったが、実際には一族内の内紛や上総本国において平家によって派遣された上総介藤原忠清との争いに巻き込まれ、相馬御厨奪還の動きまでは手が回らなかったとみられている。
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