佐竹義宗による強奪とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 佐竹義宗による強奪の意味・解説 

佐竹義宗による強奪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:48 UTC 版)

相馬御厨」の記事における「佐竹義宗による強奪」の解説

平家政権下の永暦2年1161年)正月佐竹義宗佐竹隆義次兄)が相馬御厨寄進するという事件が起きる。 佐竹義宗が前下総守藤原親通持っていた新券証文)を親通の次男・親盛から入手し奪いとったのである佐竹義宗寄進状には「自国人平常晴今常澄父也、手譲平常重嫡男常胤、依官物負累譲国司藤原親通朝臣、彼朝臣譲二男親朝臣、而依匝瑳北条由緒、以当御厨公験、所譲給義宗也、然者父常晴長譲渡他人畢所也」とある。 これを知った千葉常胤も翌2月再度伊勢神宮寄進意向示したそもそも藤原親盛から譲り受けた新券証文)はとっくに無効になっていたはずだが、藤原親盛の娘は平重盛側室だった。 伊勢神宮も常胤に味方しなかった。最初こそ、常胤側の領主となっていた禰宜荒木田明盛(正富の一族)と義宗側の領主となっていた禰宜度会彦章の対立生じた。しかし佐竹義宗伊勢神宮供祭料を負担して寄進状約束果たしたことが評価され長寛元年1163年)に佐竹義宗寄進是とする宣旨出された。永万2年6月18日には、常胤側の荒木田明盛が度会彦章に度会彦章の主張認めることを示す契状提出仁安2年6月14日付で和与状作成された。 和与成立決定的だった当時において和与とは、合意に基づく所領所職権利譲与指しており、和与に基づく権利移転悔返認めない(『法曹至要抄』)と言う法理があった。この和与によって度会彦章と彼が下司とした佐竹義宗勝訴確定伊勢神宮権威利用した法律上闘争の道は閉ざされた。 後に佐竹義宗強引に相馬御厨全域支配した。これに対して千葉氏上総氏大い反発した。『源義宗寄進状』には「常澄常胤等何故可成妨哉、是背法令、大非常之上、大謀叛人下野守義朝朝臣年来郎従等 凡不可王土者也」とある。 一方上総氏訴訟当事者ではなかったために、相馬御厨に関する権利を完全に否定された訳ではなかったが、実際に一族内の内紛上総本国において平家によって派遣され上総介藤原忠清との争い巻き込まれ相馬御厨奪還動きまでは手が回らなかったとみられている。

※この「佐竹義宗による強奪」の解説は、「相馬御厨」の解説の一部です。
「佐竹義宗による強奪」を含む「相馬御厨」の記事については、「相馬御厨」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「佐竹義宗による強奪」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐竹義宗による強奪」の関連用語

佐竹義宗による強奪のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐竹義宗による強奪のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの相馬御厨 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS