佐竹義重の常陸統一を阻止とは? わかりやすく解説

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佐竹義重の常陸統一を阻止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:03 UTC 版)

小田氏治」の記事における「佐竹義重の常陸統一を阻止」の解説

天正6年1578年7月木田余城は梶原政景によって攻め落とされ、氏治は菅谷範政菅谷政貞の6男)に奪回させた。しかし再び佐竹勢に取り返されている。天正8年1580年8月北条氏政は弟の北条氏照・氏邦に3千騎で常陸攻め込ませ、氏治の家臣はこれを案内して佐竹氏奪われていた谷田部城を落城させた。しかしその後多賀谷重経によって奪い返されている。小田氏はもはや北条氏援助なしに佐竹氏対抗できなくなっていたが、小田氏家臣団武勇優れており、佐竹氏小田氏を滅ぼすことができなかった。 天正8年1580年初頭から天正10年までの間に出家して法名「天庵」と称した天正11年1583年2月13日佐竹軍の攻勢前に土浦城にいた氏治は孫・金寿丸人質差し出して降伏したとする資料がある(『筑波郷土史』『胤信軍記』)。しかし他の資料にはこの記述がなく、これを疑問視する論評もある。またこの頃出家し、「天庵」と号している(永禄7年1564年5月有り)。天正13年1585年)、氏治は藤沢城を佐竹方から奪回し、翌・天正14年1586年)の春、結城氏から独立し佐竹となった下妻城主・多賀谷重経小張城を落とされ足高城も攻められる撃退している。天正16年1588年9月下旬には佐竹義重が3千余騎を従え攻め寄せ、1千騎を率いて出陣した氏治は手子生戦いで敗れ手子生城逃れた11月佐竹方の真壁氏幹藤沢城を攻められている。

※この「佐竹義重の常陸統一を阻止」の解説は、「小田氏治」の解説の一部です。
「佐竹義重の常陸統一を阻止」を含む「小田氏治」の記事については、「小田氏治」の概要を参照ください。

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