佐竹義重の常陸統一を阻止
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「小田氏治」の記事における「佐竹義重の常陸統一を阻止」の解説
天正6年(1578年)7月、木田余城は梶原政景によって攻め落とされ、氏治は菅谷範政(菅谷政貞の6男)に奪回させた。しかし再び佐竹勢に取り返されている。天正8年(1580年)8月、北条氏政は弟の北条氏照・氏邦に3千騎で常陸へ攻め込ませ、氏治の家臣はこれを案内して佐竹氏に奪われていた谷田部城を落城させた。しかしその後多賀谷重経によって奪い返されている。小田氏はもはや北条氏の援助なしに佐竹氏に対抗できなくなっていたが、小田氏の家臣団は武勇に優れており、佐竹氏も小田氏を滅ぼすことができなかった。 天正8年(1580年)初頭から天正10年までの間に出家して法名「天庵」と称した。 天正11年(1583年)2月13日、佐竹軍の攻勢の前に、土浦城にいた氏治は孫・金寿丸を人質に差し出して降伏したとする資料がある(『筑波郷土史』『胤信軍記』)。しかし他の資料にはこの記述がなく、これを疑問視する論評もある。またこの頃出家し、「天庵」と号している(永禄7年(1564年)5月説有り)。天正13年(1585年)、氏治は藤沢城を佐竹方から奪回し、翌・天正14年(1586年)の春、結城氏から独立し佐竹方となった下妻城主・多賀谷重経に小張城を落とされ、足高城も攻められるが撃退している。天正16年(1588年)9月下旬には佐竹義重が3千余騎を従え攻め寄せ、1千騎を率いて出陣した氏治は手子生の戦いで敗れ、手子生城へ逃れた。11月、佐竹方の真壁氏幹に藤沢城を攻められている。
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