佐竹義昭との戦い
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弘治3年(1557年)2月下旬(永禄元年(1558年)か)、佐竹義昭は下妻城主・多賀谷政経と共に小田家家臣・平塚自省が立て篭もる海老ヶ島城を攻撃した。3月、氏治は下妻城攻撃に向かったが、多賀谷政経の救援に駆けつけた佐竹義昭に黒子の戦いで敗北し、土浦城へ逃れた。永禄2年(1559年)4月、氏治の家臣で土浦城主・菅谷政貞は小田城を奪回した。 永禄2年(1559年)8月、宿敵・結城政勝は56歳で没し、その子明朝は痘を患って危急であったため、9月に氏治はこの機に乗じて結城城に押し寄せた。しかし当時下野の小山高朝(結城政勝の実弟)が結城城に在城しており結城氏・小山氏が協力して防戦した上、鬼真壁と恐れられる結城方の真壁氏幹(真壁久幹の子)に阻まれ敗退を余儀なくされた。氏治は逆襲に遭い、9月に北条城を結城氏に奪われ、海老ヶ島城も佐竹・多賀谷連合軍に攻められ城将・平塚自省が討ち死にして落城した。
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