佐竹義重との戦い
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永禄12年(1569年)5月、小田城に攻め寄せた佐竹義重(佐竹義昭の子)に対し、氏治は城を出て野戦を行い、佐竹勢に多大の損害を与えて撃退した。11月には佐竹氏家臣となった太田資正の片野城を攻撃したが、真壁氏幹の反撃に遭い敗退した。元亀元年(1570年)8月、父の代からの宿敵・結城晴朝が多賀谷重経(多賀谷政経の子)を先鋒にして小田領へ侵入してきた。小田勢は兵力に劣っていたが、氏治は菅谷政貞を援軍に派遣し、夜襲により平塚原の戦いで大勝を収めた。同年、佐竹義重の家臣・多賀谷政経によって谷田部城が攻め落とされた。 元亀4年(1573年)元旦の明け方、太田資正は佐竹軍を率いて奇策をもって小田城を襲撃した。小田城内では前日の大晦日に連歌会が行われており、油断していた氏治は小田城から敗走した。この戦いでは家臣の北条氏高が佐竹方に寝返っていた。氏治は直ちに小田城奪回を試み、5千5百の兵を率いて佐竹軍を破り小田城を奪還した。2月、義重は下妻城主・多賀谷重経に小田方の大島城を攻め落とさせ、城主・平塚周防守は討ち死にしたが、氏治はその月の内に夜襲で大島城を奪還している。 しかし手這坂の戦いで義重・太田資正に敗れて居城の小田城を再び失い、土浦城へ敗走、さらに藤沢城に逃れた。なお、手這坂の戦いは『奥羽永慶軍記』『太田家譜』『胤信軍記』では永禄12年(1569年)となっているが、『常源譜略』『東源軍記』『新編常陸軍誌』『常陽四戦記』では天正元年(1573年、元亀4年)となっている。手這坂の戦いの後、氏治が小田城を奪還した記録がないため、永禄12年説は天正元年説を混同した疑いがある。太田資正は小田城に入り、子の梶原景国と北条治高に藤沢城攻略の軍勢を与えたのに対し、小田勢はこれを迎え撃ち砦台の戦いで激戦となった。小田勢は初戦で敗れるも、今度は氏治自ら出馬して佐竹勢を打ち破り、梶原景国・北条治高は小田城へ逃げ帰った。天正元年(1573年)4月には佐竹勢が再び藤沢城に押し寄せたが、氏治は再び自ら出馬し田土部川の戦いで佐竹方の梶原景国・北条治高・真壁久幹を退けた。また、氏治が佐竹勢との戦いに忙殺されていた時期、佐竹・結城方の多賀谷政経が小田氏の家臣・豊田治親の守る豊田城の攻略を試みた。治親の急報に接した氏治は援軍を派遣し金村台の戦いで勝利を収め、多賀谷勢は引き返した。また天正元年、氏治は北条氏との盟約を成立させた。氏治と佐竹氏との和睦の動きもみられ、外部の大名権力に頼ることなく、独自に地域紛争の解決にあたっていたことがわかる。
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