佐竹義重との戦いとは? わかりやすく解説

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佐竹義重との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:03 UTC 版)

小田氏治」の記事における「佐竹義重との戦い」の解説

永禄12年(1569年)5月小田城攻め寄せた佐竹義重佐竹義昭の子)に対し、氏治は城を出て野戦行い佐竹勢に多大損害与えて撃退した11月には佐竹氏家臣となった太田資正片野城攻撃したが、真壁氏幹反撃遭い敗退した元亀元年1570年8月、父の代からの宿敵結城晴朝多賀谷重経多賀谷政経の子)を先鋒にして小田領へ侵入してきた。小田勢は兵力劣っていたが、氏治は菅谷政貞援軍派遣し夜襲により平塚原の戦い大勝収めた同年佐竹義重家臣多賀谷政経によって谷田部城が攻め落とされた。 元亀4年1573年元旦明け方太田資正佐竹軍を率いて奇策をもって小田城襲撃した小田城内では前日大晦日連歌が行われており、油断していた氏治は小田城から敗走した。この戦いで家臣北条氏高が佐竹方に寝返っていた。氏治は直ち小田城奪回試み、5千5百の兵を率いて佐竹軍を破り小田城奪還した2月、義重は下妻城主・多賀谷重経小田方の大島城攻め落とさせ、城主平塚周防守は討ち死にしたが、氏治はその月の内に夜襲大島城奪還している。 しかし手這坂の戦いで義重・太田資正敗れて居城小田城を再び失い土浦城敗走、さらに藤沢城に逃れた。なお、手這坂の戦いは『奥羽永慶軍記』『太田家譜』『胤信軍記』では永禄12年1569年となっているが、『常源譜略』『東源軍記』『新編常陸軍誌』『常陽戦記』では天正元年1573年元亀4年となっている。手這坂の戦いの後、氏治が小田城奪還した記録がないため、永禄12年説は天正元年説を混同した疑いがある。太田資正小田城入り、子の梶原景国と北条治高に藤沢城攻略の軍勢与えたのに対し小田勢はこれを迎え撃ち砦台の戦いで激戦となった小田勢は初戦敗れるも、今度は氏治自ら出馬して佐竹勢を打ち破り梶原国・北条治高は小田城逃げ帰った天正元年1573年4月には佐竹勢が再び藤沢城に押し寄せたが、氏治は再び自ら出馬し田土部川の戦いで佐竹方の梶原国・北条治高・真壁久幹退けたまた、氏治が佐竹勢との戦い忙殺されていた時期佐竹結城方の多賀谷政経小田氏家臣豊田治親の守る豊田城攻略試みた治親急報接した氏治は援軍派遣し台の戦いで勝利を収め多賀谷勢は引き返した。また天正元年、氏治は北条氏との盟約成立させた。氏治と佐竹氏との和睦動きもみられ、外部大名権力に頼ることなく独自に地域紛争解決にあたっていたことがわかる。

※この「佐竹義重との戦い」の解説は、「小田氏治」の解説の一部です。
「佐竹義重との戦い」を含む「小田氏治」の記事については、「小田氏治」の概要を参照ください。

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