宇留野氏とは? わかりやすく解説

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宇留野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 10:48 UTC 版)

宇留野氏(うるのうじ/うるのし)は日本の氏族のひとつ。

宇留野氏概説

佐竹義人の孫、宇留野義公に始まる宇留野氏本姓源氏佐竹氏常陸源氏)の傍流にあたる[1]家紋は佐竹に準じた扇紋。庶流に大山田氏など。常陸国那珂郡宇留野邑(宇留野村)を拠点として、宇留野氏と称したとされる。

関東の多くの地やがそうである様に、二極的に言えば源氏方以前は平氏方であり、『新編常陸國誌(しんぺんひたちのこくし)』(更にその基書は『古今類聚常陸國誌』1667年)には平安時代にこの地に住む宇留野五郎時景という者が平貞盛から所領を与えられこの地に城を建てたと記述がある。

『後佐竹氏譜』に「佐竹14代義俊[注釈 1]の第5子に義公(掃部助[注釈 2]/天鳳在虎(てんぷうありとら)/宇留野在虎/宇留野義公)がおり、その子に2子が処り、長男は義長(宇留野源兵衛/宇留野刑部[注釈 3]、次男は義久。弟の義久は、佐竹15代義舜の子であり、佐竹16代義篤の弟義元を養子とした。義長の子には長昌、その子は源太郎とも源兵衛とも云い、代々宇留野氏を守った。」

と記述がある様に、宇留野義公の系譜は長男の義長の系統が部垂の乱以降も継続している。「賀峰の戦い[注釈 4]で戦死を遂げた。嗣子[注釈 5]が無かった為…」とされる宇留野義長はもっと後世の宇留野義長の事である。宇留野義公に始まる系譜には義長という名が何度も出て来るので留意が必要である。また古の時代は職業とその職業名=官途≒呼名を代々の生業として世襲するのが通常であり宇留野義公に始まる系譜も代々源兵衛や源太郎を世襲しているため留意が必要である。

なお、『姓氏家系大辞典 第1巻』に、「宇留野義公の四男は大山田大学という。佐竹侯に随い秋田に移るという。」との記載があるが[2]、宇留野氏族が佐竹氏に随い秋田に移った年代は勝忠や左近の年代である1602年慶長7年)であり[3]、宇留野義公の四男に大山田大学が居た年代とは異なる。また、『常陸誌料 三 前後佐竹氏譜』を観る限りでは宇留野義公の四男に大山田大学という者が居た記録は無く、義長の四男に大學(失名)と表記された者が居り下野大山田に居たそうである。

戦国時代にあたる16世紀1500年代)前半に、佐竹義舜の3男から宇留野義久(宇留野義公の次男)の養子となった宇留野義元は、1529年(享禄2年)に近隣の小貫氏の部垂城を奪い、これ以降は部垂氏を名乗る。これを以て宇留野は長男の義長が継ぐ事になる[注釈 6]

以後、部垂義元と常陸太田城の実兄・佐竹本家16代義篤との兄弟間争いが12年間続く(部垂の乱)。『妙徳寺過去帳』等によると、1534年に佐竹軍が義元を攻める鹿子原合戦、同年に口尾瀬(茨城県那珂郡緒川村下小瀬か?)合戦、1535年12月に高久城戦、1536年に和議成立も、1538年3月18日に口尾瀬一戦、️1539年3月に部垂前小屋落城(近隣の前小屋城か?)、同年3月22日に部垂要害攻め、再び一時和議が成立、しかし『佐竹義元之墓碑』等によると1540年に部垂城大手門橋架け替え工事の際、義元が工事の結果に不満をもち、工事担当だった家臣の大賀外記(おおがげき)氏[注釈 7]に対し大衆の面前で苦言とも罵言とも云われている発言をするとこれを恥辱に感じた大賀氏が腹いせに佐竹16代義篤のもとに参上し、「恐れながら、部垂義元殿には御謀反の兆し在り。部垂城の橋の架け替えの普請(ふしん)[注釈 8]は佐竹氏に対する御謀反の意の顕れである。(=部垂義元殿は城の守りを堅くして謀反をしようと企んでいるのですよ。)」と真実とも嘘とも判らない情報を吹き込み、しかしながら佐竹方はこの情報をもとに義元討伐を決意する。そして和議が成立していたにも関わらず同年3月14日に佐竹軍500〜700人が部垂軍約50人を奇襲、部垂方は包囲され城郭も破壊。義元は自害し、養父の義久も自害。義元の子である竹寿丸は逃走し切れず死亡した。

この最終戦の時に追討勢の指揮を執り、その大将役だったのが宇留野源兵衛(義長か?)とされる[4]

こうして次男・義久の系統は途絶えたが、長男・義長の系統は継続した。また佐竹氏の勢力拡大に伴い佐竹本家の家臣となる宇留野氏族も居り、江戸氏のもとにも宇留野氏族は観られる。1557年に宇留野太蔵(宇留野城趾案内板に記録)、1562年8月に宇留野土佐守(とさのかみ)長貞[注釈 9](「石名坂より鮎川迄三十六騎、支配寄(しはいより)[注釈 10]宇留野土佐守長貞の家老面川和泉戦死」と『佐竹大秘録』に記録)、?年に宇留野玄蕃尉(げんばのじょう)[注釈 11](佐竹18代義重御家門衆の御親類の中に記録)、1582年に宇留野源太郎(宇留野城趾案内板に記録)、1584年に宇留野源太郎(隠井山高在院妙徳寺の棟札に記録)、1591年に宇留野源太郎(常陸太田城へ参列した佐竹家臣の中に記録)、同年に宇留野源太郎(佐竹19代義宣が常陸太田城から水戸城へ移る際に御列座(ごれつざ)[注釈 12]と『佐竹大秘録』(『佐竹家国秘録』か?)に記録)、1593年に宇留野源兵衛(宇留野城趾案内板に記録)、等。

尚、義久だけでなく部垂義元の血も絶えたが部垂の遺臣達は部垂衆として小場家の寄騎(よりき)[注釈 13]となり、佐竹氏の秋田減転封の際も寄親である小場家に従い大館城下に居住している。秋田県大館市内には部垂の地名や、義元を祭神とする部垂八幡神社が在る。

部垂城敷地内に在る部垂の氏神宮(現:甲神社)の大修理費を寄附している宇留野氏

実弟である部垂義元の血を根絶やしにした佐竹16代義篤の子・佐竹17代義昭の代になると佐竹氏は領内各地の寺社を厚遇しており、とりわけ1557年に部垂大宮大明神甲宮(現:甲神社)を大修理している。その修理費の寄附を割当てられた人々の名簿『佐竹義昭奉加帳』(茨城県指定文化財)に名を遺す多くは部垂衆=部垂遺臣達と考えられているものの、寄附者の中に「宇留野???」の文字も判読出来る。

江戸氏のもとにも観られる宇留野氏

江戸氏の家臣・加倉井氏(茨城県水戸市加倉井町)が外護する妙徳寺(現・隠井山高在院妙徳寺)の棟札によると、妙徳寺の修理が1584年1月12日から暫し行なわれているが、その修理費の寄附を人々に募った者と寄附者として「十乗坊(式部卿日妙)妙徳寺 宇留野源太郎殿 加倉井讃岐守(さぬきのかみ)[注釈 14]内儀(ないぎ)[注釈 15]」、「守護重通代宇留野源太郎殿(=地域の管轄者の江戸重通の代役の宇留野源太郎殿)」といった記録があり、部垂の乱以降も引続き江戸氏のもとにも宇留野氏族は観られる。

秋田減転封に同行した宇留野氏

宇留野氏のうち記録に遺っている明確な系譜の起こりは茨城県常陸太田市を中心に栄えた佐竹本家の一傍流である。室町時代、佐竹本家14代義俊[注釈 16]}の4男・天鳳在虎[注釈 17]が還俗して宇留野村に住む際に宇留野義公と俗世名を名乗った。

但し『新編常陸國誌』(更にその基書は『古今類聚常陸国誌』1667年)によると平安時代天禄年間(970年-973年)にこの地に住む宇留野五郎時景という者が平貞盛から所領を与えられこの地に城(宇留野城)を建てたと記述があり[3][注釈 18]、また『水府志料』内の「樫村氏所蔵文書」によると、鎌倉時代末の元享3年(1323年)9月23日付関東下知状に、永仁5年(1297年)に当地の地頭に任命された「宇留野大輔阿闍梨宏瑜(うるのだいすけあじゃりこうゆ)[注釈 19]」という僧侶の名が見え、鎌倉時代には「宇留野」を名字の地とする氏族がいたと推定されているが[3]、真の宇留野氏(うじ)や系譜の起こりはまだよく解明されていない[注釈 20]

義公の長男が義長[注釈 21]、次男が義久。次男は自害し、長男の長男が長昌(源五郎長昌)、長男の次男が長行[注釈 22]

江戸時代前年の1602年(慶長7年)に佐竹19代義宣の時になると佐竹氏は現在の秋田県への減転封令を徳川家康から受け下向するが、この秋田減転封には宇留野氏族の内、宇留野義重が同行している[3][4]。この時、宇留野は宇留野氏神に軍配団扇2握(常陸大宮市指定有形文化財[6])を納めたと伝承されている。

佐竹氏の秋田減転封に於いては傍流や家臣達は一族全員が同行した訳ではなく、長男家族のみ同行し、他は農民として住み慣れた地に残るケースも多かったと、実際にこの辺りの地域でも云い伝えられている。

秋田地方にて長行の子孫である勝明などは久保田藩の初代郡奉行等を務めた。

系譜 佐竹義人(上杉義憲)-義俊-宇留野義公-義長-長昌=長行-義長-勝忠=勝明-勝休-伊勢千代

水戸藩の尊王志士・義民として活躍した宇留野氏

江戸時代の1831年に宇留野源五郎という者が誕生。常陸国那珂郡小野村の百姓で水戸藩からこの地の小山守(こやまもり)[注釈 23]に選任され担っていた。

水戸藩では1830年代後半~1840年代にかけ尊王攘夷思想が形成され水戸学が盛んであり、源五郎も尊王攘夷運動に励むも1872年(明治元年)小野村にて討死。享年41歳。靖国神社に合祀(ごうし)[注釈 24][7]

脚注

注釈

  1. ^ 以後、時系列を解り易くする為、便宜的に佐竹XX代〇〇氏との表現をするが、佐竹氏の代数というのは参照する史料や伝承地により誰を初代と見做すか等で異なり1〜2代の違いは誤りとは言えない。XX代と断定する旨ではない。
  2. ^ 「掃部助」は、宮中(天皇の居所)の清掃や儀式の設営等を担う機関である掃部(次官)であり、職名であって(実名)ではない可能性が高い。
  3. ^ 刑部とは刑部省の事であり、司法全般を管轄し重大事件の裁判や監獄管理、刑罰執行等を担う機関の事であり、職名であって諱(実名)ではない可能性が高い。
  4. ^ 出典が判らないため、いつ何の戦いを指しているのか検証困難であり、何れにせよ『後佐竹氏譜』だけでなく他の文献に於いてもこの時代の義長に長男の長昌や次男の長行が居た記録がある事から別の時代の義長と考えられる。
  5. ^ 嗣子とは後継の子の事。
  6. ^ 義公が「現:宇留野城跡にあたる城を建てた。」や「義元が宇留野名跡を継いだ」といった断定的な記述が散見されるが宇留野氏神社が経緯や持主を認めた記録は何も遺っていない。
  7. ^ 「外記」は文書作成や行事記録等を担当する官職の職名であり、ではない可能性が高い。
  8. ^ 普請とは労使等を(あまねく、広く)(おう)事。
  9. ^ 土佐守とは役職名であり土佐守長貞という名なのではない。
  10. ^ 支配寄とは寄親・寄子制の寄親の別名で、主君が有力家臣(寄親)に地縁関係のある地侍などの一般家臣(寄子)を普段から預ける事で部隊の連帯や信頼関係を高めた制度の事。寄親は領地が報酬だった。寄子は寄騎(よりき。寄子の内の騎馬武士の事)や足軽(あしがる)等で成り、土地税徴収権が報酬だった。
  11. ^ 玄蕃尉とは(僧侶)、(外国人や外国使節や外国賓客)を併せた玄蕃(寺社や外国人関連を扱う官職)の事であり(武士)階級の事である。諱(実名)ではない可能性が高い。
  12. ^ 並んで座る事。
  13. ^ この頃の寄騎とは寄親・寄子制の寄子の内、騎馬武士の事。寄子には他に足軽(あしがる)等がいた。寄親・寄子制とは主君が有力家臣(寄親)に地縁関係のある地侍などの一般家臣(寄子)を普段から預ける事で部隊の連帯や信頼関係を高めた制度の事で、この場合小場が寄親だった事になる。
  14. ^ 讃岐守とは役職名の事であり諱(実名)ではなく呼名の可能性が高い。
  15. ^ 目上の人物の妻の事。
  16. ^ 伊予守(いよのかみ)は役職名の事であり"伊予守義俊"という名なのではない。実際に伊予守に就いていた訳ではない。常陸國内或は東日本界隈での武士の格付として伊予守との格付名が付けられ呼称されていた可能性や、記録時の格付や敬意として伊予守と付けられた可能性等がある。
  17. ^ 天鳳在虎は宇留野義公が少年時に出家していた際の僧名である。
  18. ^ これに伴い全国文化財総覧は、宇留野城の築年を天禄年間(970年-973年)として掲載している[5]
  19. ^ 阿闍梨(あじゃり)とは天台宗真言宗等の密教で使われる単語で先生や伝道師の意。優れた修行者に伝法灌頂(でんぽうかんじょう/でんぼうかんじょう/でんほうかんじょう)という儀式を施し晴れて修行者から阿闍梨(正式な僧侶)へと認められる。
  20. ^ 茨城県常陸大宮市に宇留野城址と呼ばれる史跡が在るが宇留野氏神社が城の経緯や持主を認める記録は何も遺っていない。史跡の表面的な特徴は戦国時代の城だが時景が建て大輔が拠点にした城がどこに在ったのかが未だ以て判明しておらずこのスポットがそれが在った場所ではないとの科学的確証も無いのもありこのスポットに在ったのではとも云い伝えられている。[要出典]
  21. ^ 源兵衛または源兵衛尉とは、(源氏系統・清和天皇の子孫系統)の兵衛(天皇のSPや宮中の警護をする官職)の(武士階級)の事であり、源兵衛尉義長とは「源系統の兵衛職の尉階級の義長」の意。
  22. ^ 右近(うこん)とは右近衛府(うこんえふ)の略であり天皇のSPや宮中の警護をする役職名の事であり右近長行という名なのではない。実際に右近役には就いていなかった可能性もあり、常陸國内或は東日本界隈での武士の格付として右近との格付名が付けられ呼称されていた可能性や、記録時に格付や敬意として右近と付けられた可能性等がある。
  23. ^ 小山守とは藩有林の管理・取締りをする水戸藩オリジナルの職名の事。水戸藩が人件費をケチりたいが為に官職ではなくその土地の地理や性質を熟知する百姓達に民間委託という形を執った。善良な住民はそれでも真面目に働いたので不正伐採や山火事等が防がれた。水戸藩の小山守制度は特に有効に機能し藩の財産はよく守られた旨が複数の資料に記録されているがこれはひとえに低コストで使われる事をいとわなかった現地百姓達の御蔭である。こうした待遇面に加えあくまでも「百姓」扱いであった辺りが今なお茨城県北地域において「佐竹の頃は良かった…」とささやかれる所以である。[要出典]
  24. ^ 一体毎に骨壺等で別けるのではなく複数体の遺骨をまとめて埋葬する事。

出典

  1. ^ 太田 1934, p. 785.
  2. ^ 太田 1934, p. 1340.
  3. ^ a b c d 平井聖 1979, pp. 64–65.
  4. ^ a b 宇留野 2017.
  5. ^ 宇留野城跡”. 全国文化財総覧. 2025年7月27日閲覧。
  6. ^ 常陸大宮市教育委員会 2012.
  7. ^ 明田 1986, p. 193.

参考文献

学術書籍

  • 大宮町史編纂委員会 編『大宮町史』茨城県那珂郡大宮町役場、1977年。 NCID BN04316136 
  • 常陸太田市史編さん委員会 編『佐竹家臣系譜』常陸太田市、1982年3月。 NCID BN12281310 
  • 秋田県立公文書館 編『系図目録1』秋田県、2001年3月。 NCID BA51889249 
  • 茨城大学中世史研究会 編『常陸大宮ヒストリーマップ-甲神社と部垂の乱を歩く!-』茨城大学、2012年。 
  • 宇留野, 弘『佐竹支族宇留野氏系譜 -秋田に下向した宇留野氏の探訪-』秋田文化出版、2017年11月。 ISBN 9784870225800 

史料

  • 『佐竹大秘録』
  • 『佐竹義昭奉加帳』
  • 『後佐竹氏譜』
  • 『水府志料』
  • 『佐竹義元之墓碑』
  • 隠井山高在院妙徳寺の棟札
  • 『妙徳寺過去帳』(隠井山高在院妙徳寺)
  • 『新編常陸國誌』(更にその基書は『古今類聚常陸国誌』1667年)

その他

  • 宇留野城趾案内板
  • 部垂城趾案内板

関連項目

外部リンク




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