宇留野氏とは? わかりやすく解説

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宇留野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/27 20:01 UTC 版)

宇留野氏(うるのし)は日本氏族のひとつ。

宇留野氏概説

宇留野氏本姓源氏佐竹氏常陸源氏)の傍流にあたる[1]家紋は佐竹に準じた扇紋。庶流に大山田氏など[2]

佐竹義人の孫の義公の代に常陸国那珂郡宇留野邑(宇留野村)を拠点として、宇留野氏と称したとされる。

(※以後時系列を解り易くする為"佐竹XX代〇〇氏"との表現をするが、佐竹氏の代数というのはそもそも文献や伝承地により誰を初代とするか等で異なる為、1〜2代の違いは誤りとは言えない事はご容赦願いたい。)

『後佐竹氏譜』より「佐竹14代義俊の第5子に義公が処り、その子に2子が処り、長は義長(宇留野源兵衛)、弟は義久。弟の義久は、(佐竹15代義舜の子で処り)佐竹(16代)義篤の弟(で処る)義元を養子とした。義長の子には長昌、その子は源太郎とも源兵衛とも云い、代々宇留野氏を守った。」

と記述がある様に宇留野氏は長男 : 宇留野義長の系統として継がれている。部垂の乱で絶えたのではないし、「賀峰の戦い(=静賀峰の戦い)で戦死を遂げた。後継子が無かった為…」とされる宇留野義長は戦いが1583年である事からもっと後世の宇留野義長の事である。宇留野氏系譜には義長という名が何度も出て来るので留意が必要である。また宇留野氏族は代々源兵衛や源太郎を世襲している為留意が必要である。

戦国前期に次男の子(養子) : 義元が宇留野城主となる。

1529年に義元は、何らか脅威を感じていたとも考えられている近隣の小貫氏の部垂城を奪い以降は部垂氏を名乗る。之を以て宇留野氏は長男 : 宇留野義長が継ぐ事になる。(下剋上のこの時代は佐竹氏のみならず宇留野氏の中も家督争いが起きていたのかも知れないとも考えられる。)

(部垂城を奪った義元の行動を常陸太田城の実兄 : 佐竹本家16代義篤が良く思わなかったのか、以後実兄弟間争いが12年間続く(部垂の乱)。1534年に佐竹軍が義元を攻める鹿子原合戦、同年に口尾瀬合戦、1535年12月に高久城戦、1538年に尾瀬一戦、1539年3月に部垂前小屋落城(※部垂城の前小屋部分、或いは城下町の前小屋地域の事とも考えられるが現状では近隣の前小屋城の事と解釈するのが主流である)、同年3月22日に部垂城攻撃、その後一時和議が成立、しかし1540年に部垂城大手門橋架け替え工事の際、義元が工事の結果に不満をもち、プロジェクト担当だった家臣 : 大賀氏に対し大衆の面前で苦言とも罵言とも云われている発言をするとこれを恥辱に感じた大賀氏が腹いせに佐竹16代義篤のもとに参上し「恐れながら、部垂義元殿には御謀反(=主君に対する裏切り)の兆し在り。部垂城の(橋の架け替えの)普請は佐竹氏に対する御謀反の意の顕れである。(=部垂義元殿は城の守りを堅くして謀反をし様と企んでいるのですよ。)」とデマを吹聴し、この情報をもとに佐竹方は義元討伐を決意してしまう。そして和議が成立していたにも関わらず同年3月14日に佐竹軍500-700人が部垂軍約50人を奇襲、部垂方は包囲され城郭も破壊。義元は自害。養父 : 義久も自害。義元の子 : 竹寿丸は逃走し切れず死亡。この最終戦の時に大将役を担い追討指揮を執ったのが宇留野源兵衛(※義長か?)であり勝利で以て貢献した。特段"御家取潰し"等になった訳でもない。)

こうして次男 : 義久の系統は途絶えたが、宇留野氏や宇留野城は長男 : 宇留野義長の系統として継がれており佐竹氏の勢力拡大に伴い宇留野氏族は家臣に起用されて行く。1557年に宇留野太蔵、1582年に宇留野源太郎、1591年に宇留野源太郎(常陸太田城へ参列した佐竹家臣の中に記録)、1593年に宇留野源兵衛、?年に宇留野玄蕃尉(佐竹18代義重御家門衆の御親類の中に記録)(※玄蕃尉とは"玄"=僧侶、"蕃"=外国人や外国使節や外国賓客、"玄蕃"=寺社や外国人関連を扱う官職の事であり"尉"=武士の階級の事である。但し当人が本当に玄蕃職に就いていたか単に名を官職風にしたくて使っていたかは定かではない。)、これ等の記録が文献に観られる。

(尚、義久だけでなく部垂義元の血も絶えたが部垂の遺臣達は部垂衆として小場家の寄騎となり、佐竹氏の秋田減転封の際も小場家に従い大館城下に居住している。秋田県大館市内に部垂の地名や、義元を祭神とする部垂八幡神社が在る。)

下克上のこの時代は佐竹氏内でも派閥が出来ており、宇留野氏としてもどの派閥がどうなっても良い様にとの謂わば保険だったのではとも考えられている。

尚、義元は次男 : 義久の養子でなく長男 : 義長の養子だとする解釈もある。

参考 : 『後佐竹氏譜』

参考 : 宇留野城跡案内板

参考 : 部垂城跡案内板

参考 : 部垂義元墓碑

参考 : 茨城大学中世史研究会『常陸大宮ヒストリーマップ 甲神社と部垂の乱を歩く!』2012年

参考 : 『大宮町史』昭和52年

部垂城敷地内に在る部垂の氏神宮(現 : 甲神社)の大修理費を寄附している宇留野氏

実弟である部垂義元の血を根絶やしにした佐竹16代義篤の子 : 佐竹17代義昭の代になると佐竹氏は支配地の安定を図る為か積極的に領内各地の寺社を厚遇し、1557年、部垂氏の鎮魂を願ってか、部垂大宮大明神甲宮(現 : 甲神社)を大修理している。その修理費の寄附を割当てられた人々の名簿『佐竹義昭奉加帳』(県指定文化財)に名を遺す多くは部垂衆=部垂遺臣達と考えられているものの、寄附者の中に宇留野???の文字も判読出来る。

(判読済の苗字84姓※原本にはフルネームが記載されているが判読出来た姓のみ紹介 : 小田野、和田、根本、野上、長田、黒澤、石橋、江間、人見、田所、大山、大和田、徳川、片岡、大縄、後藤、長山、徳宿、関、安土、川上、荻津、高久、石川、小阿久津、立原、本橋、柏、瀬尾、高和田、小林、大串、内田、冨岡、小槻、皆川、古徳、寺門、冨山、阿久津、宮内、金田、小泉、山田、川又、飯村、山崎、篠田、綿引、梶、桑原、大賀、須藤、塙、倉田、宇留野、飛田、井坂、林、赤須、田村、小澤、掛札、大貫、清水、菊地、長井、大鷹、嶋根、沼田、藤田、木村、豊田、泉、河野、寺崎、安部、おそ能、栗田、岡崎、小室、伊坂、柏木、右澤)

参考 : 歴史民俗資料館大宮館

秋田減転封に同行した宇留野氏

前項〈宇留野氏概説〉内の"『後佐竹氏譜』より"の下りの繰り返しになるが、現在判っている宇留野という系譜の明確な起こりは茨城県常陸太田市を中心に栄えた佐竹本家の一傍流である。室町時代、佐竹本家14代義俊(※伊予守とは役職名の事であり伊予守義俊とは義俊が幾つか就いた役の内の「伊予守役の義俊」の意であり伊予守義俊という名なのではない。)の四男 : 天鳳在虎(※出家していた際の僧名である。)が還俗して茨城県常陸大宮市の宇留野地方に住む際に宇留野義公と俗世名を名乗ったのが現在記録で判っている限りの明確な宇留野という系譜の起こりである。

但しこの地にはそれ以前の平安時代950年前後頃の築と推測される宇留野城という城が既に存在していたし(※この地の宇留野五郎時貞という者が平貞盛から所領を与えられ築城したと云われている)、城の敷地内にはその頃共に設計・建築されたと推測される神社(現 : 日向神社)がこの地の宇留野氏神として存在している。また鎌倉時代1297年頃には宇留野大輔宏瑜という僧侶がこの地の地頭として居城していた記録もあり真の宇留野という系譜の起こりはまだ解明されていない。

『後佐竹氏譜』記載内容の繰り返しになるが、義公の長男が義長(※源兵衛または源兵衛尉とは"源"=源氏系統・清和天皇の子孫系統、"兵衛"=武士の職名、"尉"=武士の階級の事であり源兵衛尉義長とは「源系統の兵衛職の尉階級の義長」の意。)、次男が義久。次男は自害し、長男の長男が長昌(源五郎長昌)、長男の次男が長行(※右近とは武士の職名の事であり右近長行とは「右近職の長行」の意。)。

これも前項〈宇留野氏概説〉の繰り返しになるが佐竹氏の勢力拡大に伴い宇留野氏は家臣に起用されて行き江戸時代前年の1602年佐竹本家19代義宣の時に佐竹氏が現在の秋田県への減転封令を徳川家康から受けた際も宇留野義重を初めとする宇留野氏族の一部は秋田地方へ同行した。(この時宇留野義重を初めとする宇留野氏族はこの地でのいつかの再興を願い氏神さまに軍配2扇を奉納している様である。)

佐竹氏の秋田減転封に於いては傍流や家臣達は一族全員が同行した訳ではなく、長男家族のみが同行し、他は農民として住み慣れた地に残るケースも多かったと云い伝えられている。

再記しておくが、宇留野氏系譜には義長という名が何度も出て来るので留意が必要である。また宇留野氏族は代々源兵衛や源太郎を世襲している為留意が必要である。

参考 : 『後佐竹氏譜』

参考 : 宇留野城跡案内板

参考 : 部垂城跡案内板

参考 : 水府志料


秋田地方にて長行の子孫 : 勝明などは久保田藩の初代郡奉行等を務めた。

系譜 佐竹義人(上杉義憲)-義俊-宇留野義公-義長-長昌=長行-義長-勝忠=勝明-勝休-伊勢千代

水戸藩の尊王志士・義民として活躍した宇留野氏

脚注

  1. ^ 太田亮上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年)785頁参照。
  2. ^ 宇留野義公の四男は大山田大学という。佐竹侯に随い秋田に移るという。太田亮前掲書(角川書店、1934年)1340頁参照。
  3. ^ 明田鉄男『幕末維新全殉難者名鑑2』(新人物往来社、1986年) 193頁参照。

参照文献・外部リンク

  • 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑Ⅱ』(新人物往来社、1986年)
  • 秋田県立公文書館編『系図目録Ⅰ (PDF) 』 (秋田県、2001年)
  • 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)
  • 常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸太田市、1982年)

関連項目




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