山入佐竹氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:42 UTC 版)
兄の今宮周義(ちかよし)は庶子であったため、代わって義舜が嫡男となり、延徳2年(1490年)、父・義治の後を受けて第15代当主となったが、この直後の7月に代々本家に反抗的であった佐竹山入家の佐竹義藤・佐竹氏義父子が、長倉氏、天神林氏、宇留野氏らと結んで反乱を起こし、常陸太田城を襲った。不意を襲われ劣勢の義舜は居城を捨て、母の実家の大山氏を頼り、その城の1つ孫根城に匿われた。 明応元年(1492年)、義藤が病死すると、和議の気運が持ち上がり、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり、岩城氏家老の岡本竹隠軒と山入家方の有力者の江戸通雅、小野崎親通が協議を重ねた。山入家を継いだ氏義は江戸氏と小野崎氏が離反した後も、あくまでも義舜との抗争の継続に固執し、明応9年(1500年)には大山城の義舜は氏義の攻撃を受け、金砂山城に追いやられた。 文亀2年(1502年)の金砂山城の戦いで、氏義により義舜は自害寸前まで追い詰められたが、天候の悪化を味方につけ逆襲し、なんとか滅亡を逃れることができた。その後、大門城に移り、岩城氏などの援助を受けて形勢は逆転し、永正元年(1504年)には常陸太田城を奪回することに成功した。氏義・義盛父子は捕らえられ殺害され、永正3年(1506年)までには反逆した佐竹山入家一族は滅ぼされた。
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