千葉氏当主説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 10:23 UTC 版)
父の康胤は、享徳の乱で関東が混乱する中、1455年、当時の千葉氏の正統である千葉胤直父子を殺害し、自ら千葉氏当主を僭称したが、幕府に追討される立場となる。1457年、父とする康胤と兄弟とする千葉胤持(第20代当主)が戦死したため、輔胤がその後を継いで当主となる。 ところが同年、東常縁の攻撃を受けて居城(千葉城)から追われ、佐倉に逃れ、そこを拠点とした。 1471年、上杉顕定に追われた古河公方足利成氏を庇護し、翌年には成氏を古河に帰還させた。1478年、長尾景春の乱が勃発すると、子の千葉孝胤を派遣して、上杉氏に反抗する景春を助けた。1492年に死去し、跡を子の孝胤が継いだ。
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