印東常茂とは? わかりやすく解説

印東常茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/18 13:43 UTC 版)

 
印東常茂
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 治承4年10月23日1180年11月12日
別名 常重、伊東次郎、印南次郎
氏族 房総平氏上総氏印東氏
父母 平常澄
兄弟 伊西常景印東常茂匝瑳常成佐是円阿大椎惟常埴生常益天羽秀常上総広常、相馬常清、臼井親常、時田為常、金田頼次
長南重常、印東頼常、南郷師常、戸田常政
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印東 常茂(いんとう つねしげ)は、平安時代末期の武士上総氏5代当主。平常澄の次男。上総広常の兄。子に長南重常、印東頼常、南郷師常、戸田常政。常重とも。下総国印東庄に因んで印東(伊東)次郎と号した。印東氏の祖。

兄・伊西常景が有していた上総氏及び房総平氏の惣領の座を、これを殺すことで強奪した。しかし、常茂が暴力的に惣領の座を得たことは上総氏及び他の房総平氏の間で激しい反発心を引き起こし、多くが常茂の許を離れて、その弟である介八郎広常の許に去った。

そこで常茂は当時下総の国守であった藤原親盛を通じて、その姻戚関係にあった平家と結びつくことで自己の地盤を固めようとした。実際、常茂は大番役として京に上洛している。

常茂が上洛している間の治承4年(1180年8月4日源頼朝伊豆国で挙兵した。頼朝挙兵に、上総広常とその同族である千葉常胤が賛同して兵を挙げている。常茂の子息達は父親に反して広常に加勢したことが『源平闘諍録』に記載されている。

息子にも見捨てられた常茂は平維盛を大将とする頼朝追討軍に従事していたが、10月23日富士川の戦いで討ち果たされた。かくして、房総平氏は広常の許で統一されることになった。他方、父親と一線を画して源氏に加勢した常茂の子息は御家人として存続することが許された。

先代
伊西常景
房総平氏歴代当主
-
次代
上総広常
先代
伊西常景
上総氏歴代当主
-
次代
上総広常

印東常茂(平常茂)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:18 UTC 版)

印東氏」の記事における「印東常茂(平常茂)」の解説

平常澄二男上総広常八郎)の兄。印東常茂(次郎)が下総国印旛郡印東庄の庄司となって印東(伊東)を称したとされる。1163~66年間に兄の印南印西・伊西)新介・常景を討ち上総氏総領となる。子息長南重常、印東頼常、南郷師常、戸田常政がいる。二男 頼常も印東庄別当職として赴任して「印東別当」を称している。

※この「印東常茂(平常茂)」の解説は、「印東氏」の解説の一部です。
「印東常茂(平常茂)」を含む「印東氏」の記事については、「印東氏」の概要を参照ください。

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