平安~鎌倉期の印東氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 平安~鎌倉期の印東氏の意味・解説 

平安~鎌倉期の印東氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:18 UTC 版)

印東氏」の記事における「平安~鎌倉期の印東氏」の解説

印東常茂平常茂) 平常澄二男上総広常八郎)の兄。印東常茂次郎)が下総国印旛郡印東庄の庄司となって印東(伊東)を称したとされる。1163~66年間に兄の印南印西・伊西)新介・常景を討ち上総氏総領となる。子息長南重常、印東頼常、南郷師常、戸田常政がいる。二男 頼常も印東庄別当職として赴任して「印東別当」を称している。 治承4年1180年10月20日富士川の戦い敗れて相模国鮫島にて討死遂げたことが吾妻鏡記載されている。 印東別当頼常(胤常) 常茂の二男治承4年1180年9月4日結城浜の戦い赴く上総広常率い軍勢に兄・長南太郎重常と弟・四郎師常とともにその名が見える。 臼井四郎常・五郎久常相馬九郎常清、天羽庄司秀常、金田小太郎康常、小権守常顕、匝瑳次郎助常、長南太郎重常、印東別当胤常・四郎師常、伊北庄司常仲・次郎明・太太郎常信・小太夫時常、佐是四郎禅師等を始めとする一千余騎が上総広常付き従っている。 印東四郎南郷師常) 常茂の四男。建久6年1195年3月10日頼朝東大寺供養には、「印東四郎」が「臼井六郎臼井有常)」「天羽次郎天羽直常)」「千葉二郎相馬師常)」「千葉六郎大夫東胤頼)」「境平二兵衛尉(境常秀)」とともに参列している。上総国武射「南郷」を領し鳴戸成東城)へ城を築いたことが記録残っている。 印東太郎常直安貞2年1228年7月23日将軍藤原頼経三浦義村山荘への渡御随兵として、その名が見える。 印東八郎 同年5月8日御所馬場殿にて五番競馬催され将軍頼経観覧する中、接戦繰り広げられた。その代表者として加地三郎左衛門尉印東八郎の名が見える。 5月13日には、印東八郎御所召され将軍家より御厩栗毛の馬を下賜された。 嘉禎2年1236年10月5日興福寺僧兵暴挙を防ぐため、大和国守護人設置することが決まり興福寺荘園没収し、それらを大和国各地頭に補した。さらに、畿内近国御家人らを催促し南都通じ道路ふさいだ。この守備命じられたのが印東八郎佐原七郎らの「殊勝、勇敢、壮力の輩」であった印東次郎 寛元3年1245年1月9日御弓始の儀には、弓術長じた御家人選ばれるが、その一番に三浦光村三郎)と印東次郎名を連ねた記録がある。 印東次郎・三郎 宝治元年1247年)の宝治合戦では、印東太郎その子次郎三郎戦死遂げた宝治合戦戦死した印東太郎は、安貞2年1228年)の印東太郎常直)か。子息次郎寛元3年1245年1月印東次郎であると思われる印東小四郎光継 元弘3年1333年)から翌年正月にかけて、鎌倉幕府残党である安達城介高景、名越中務大輔時如の両名が、安達高景領所があった陸奥国逃走陸奥国津軽平賀郡大光寺地頭曾我助光入道道性がこれに協力して挙兵した。これに後醍醐天皇方に寝返った曾我乙房丸(曾我光高)、工藤貞行中務右衛門尉)、早河禅門安東高季(五郎太郎)が大光寺攻め寄せて合戦となった。この大光寺合戦で、曾我乙房丸方として参陣。正月8日戦いで左膝を射抜かれ記録残っている。

※この「平安~鎌倉期の印東氏」の解説は、「印東氏」の解説の一部です。
「平安~鎌倉期の印東氏」を含む「印東氏」の記事については、「印東氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「平安~鎌倉期の印東氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平安~鎌倉期の印東氏」の関連用語

1
10% |||||

平安~鎌倉期の印東氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平安~鎌倉期の印東氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの印東氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS