北相馬と南相馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:48 UTC 版)
源義朝と千葉常胤が寄進した相馬御厨は場所が異なる為、義朝は紛争を「調停」しただけとする説もある。 相馬御厨の境界(四至)は、千葉常重や源義朝(ほぼ同じ)より南(小野上大路まで)だけ大きく広がっていた形跡がある。かつての寄進地は茨城県北相馬郡近辺であったが、千葉県南相馬郡側に広がり、東西7km、南北20km(推定)に及ぶ広大な地域となっていた。保延2年(1136年)以降、常胤一族は必死になってその南部を開発していたのかもしれない。一方、北相馬は上総氏の領分で、上総常澄の子、相馬常清が源義朝から管理を任されていた可能性がある。 しかし千葉常胤は、源義朝を侵略者の一人と感じていたようだ。千葉常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とある。また源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとしたという説がある。源義朝が相馬御厨を寄進し、現地での徴税を請負をしていた以上、単なる書類上のことだけではなく、事実上の支配があったと考えられるからである。その一方で、この寄進状の中において藤原親通の意向を受けて紀季経が千葉常重から責め取ったのが「押書」であるのに対して、源義朝が千葉常重から責め取ったのが「圧状」とされているのも注目される。押書も圧状も作成者に強制的な履行を強いるための契約文書であるが、押書は合法的な契約文書としての性格を有しており、常胤も後日国衙が主張する債務(官物未進分)を国庫(国衙の倉庫)に納めているのに対して、圧状は違法な文書として作成者はその効力の否定を主張することができ、当時の訴訟においても圧状とされた文書の証拠能力は否定されるものであった。後に義朝が神威を恐れて伊勢神宮に寄進を行った際に、神宮側が義朝の寄進の根拠にしようとした常重作成の文書を違法な圧状とみなして、同状を根拠とした神への寄進を拒んだ。その結果、伊勢神宮から相馬御厨に対する権利を認められなかった義朝は自己の権利主張を放棄する避状を提出せざるを得なかったとみられている。 その後、千葉常胤と源義朝の間でどういう決着を見たのかは不明であるが、保元の乱では千葉常胤は源義朝の率いる関東の兵の中に、上総常澄の子広常とともに名が見える。このことから、千葉常胤が、源義朝の傘下に入ることによって千葉常胤は領地の保全を図ったとの見方も可能である。
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