源義朝の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:48 UTC 版)
更に康治2年(1143年)に介入してきたのが源義朝(頼朝の父)であった。源義朝はこのころ上総国の上総常澄の処に居た。上総常澄は平常晴の息子だが、父親とは折り合いが悪かった。そのため千葉常重が養子になり、相馬郡を譲られた。義朝は上総常澄の「浮言」を利用して、千葉常重から相馬郡(または郷)の圧状を責め取る。 そして、「大庭御厨の濫妨」の翌年の天養2年(1145年)3月、義朝は、その相馬郷を避状(さがりじょう)の提出するという形で伊勢内宮外宮に寄進する。 源義朝と藤原親通の利害関係はよく判らないが、藤原親通が摂関家に従属する位置にあったので、大殿・藤原忠実の権威を利用して押さえたという説がある。
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