源義朝の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:30 UTC 版)
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で入浴中の義朝を欺し討つ。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。 野間大坊にある義朝の廟には、この故事に因んで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている。また境内には義朝の首を洗ったとされる「血の池」があり、国に異変があると、池の水が赤く染まると言う伝説がある。
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