源義経の前半生は不明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「源義経の前半生は不明」の解説
源義経についてよく誤解されているのは義経の前半生は不明な事であり、牛若丸の記述などの幼少の記録は色々創作で書かれているが一次資料が存在せず皆無である。『平治物語』は創作であって義経の幼年期に詳しいが史料と呼べる物ではない。史学的にはっきりしているのは治承4年(1180年)10月21日、この時22歳で黄瀬川の陣中で頼朝と相曾してからである。その前までどこで何をしていたのかまったく不明の人物であった。この時兄弟の名乗りをし、感激の涙の再会をしながら、その後三年の間行方不明になっている。頼朝に重用されることもなく寿永2年(1183年)10月、25歳の義経が頼朝の命を受け木曽義仲追討のため鎌倉を出発し京へ向かい、ここで再び歴史に現れ、27歳まで武将の名をほしいままにし、中央までその名を知られるが勝手に王朝国家から職務を任じられるなどして頼朝の怒りを買い不和になり、文治2年(1186年)京から偽山伏に扮し北陸路かあるいはどこかを通り、文治6年(1189年)陸奥平泉で死した21歳から30歳までのわずか9年間しか現在判っていないというのが彼の人生である(このうち3年は行方不明)。腰越状で通説とは違うことを云っていることなどから、一説にはこの人物は偽なのではないか という物まであり、作家・歴史研究家の高木浩明、二階堂玲太、椎野健二朗らは、奥州藤原氏が鎌倉幕府に襲われないために、偽の人物を頼朝の弟として擁立したのではないかと疑っている。勿論これは学説では肯定されていない。
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