源義経の居所 襲撃の伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/21 02:31 UTC 版)
「真下基行」の記事における「源義経の居所 襲撃の伝承」の解説
『玉葉』の文治元年(1185年)の記述(京都の事件)として、小玉(児玉党)30騎ばかりが源義経の居所を襲撃したとある。他の軍記物には児玉党の一族が義経の居所を襲撃した記述はないが、旧家の伝書には、真下基行と塩谷五郎(塩谷氏祖の塩谷家遠の子息、維弘か)が、渋谷(土佐坊)昌俊に従い、義経の居所である堀川御所を夜襲とある(したがって、昌俊軍の83騎の内、30騎もが児玉党武士だったと考えられる)。児玉党の一族の中に、昌俊に従う者がいたと見られ、伝書には、討ち死にした昌俊の亡骸は、相談した結果、児玉郡の塩谷に埋められたとされる。『吾妻鏡』における伝承(敵に捕まって斬首された)とは異なる。
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