源義経腰掛石とは? わかりやすく解説

源義経腰掛石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 02:07 UTC 版)

踞尾八幡神社」の記事における「源義経腰掛石」の解説

源義経弁慶伊藤義盛を連れ、八嶋に渡る途中暴風にあい踞尾に避難し当社参拝した時に義経腰を掛け休息したと伝わる「義経腰かけ石」として境内現存するまた、その時庄屋神野庄司衛門宅で世話になり礼状として義経弁慶伊藤義盛筆の3通の文書渡したとされ、踞尾八幡神社古文書として文書保存されている。また、武功祈願し馬鞍当社奉納したとされる。また義経使用したとされる食器が「古将之遺物義経使用食器」として社宝となっている。 義経世話をした庄屋神野庄司衛門は、義経滞在させたために罪を受け殺されたとされ、供養のため屋敷跡阿弥陀仏祀られたと伝わる。 奉納された馬競は、明治期ごろまで社宝としてあったが、その後不明となっている。その馬鞍描いた絵図根岸競馬記念公苑所蔵し、「和泉国踞尾村農家北村源義経 朝臣図」と添え書きがある。その鞍図の原図が『集古十種』にあり、奈良県吉野吉水神社保存されている義経の鞍に似ている実際に踞尾に立ち寄った信頼には残っていないが、踞尾村立ち寄ることができた可能性として以下のような記録がある。 『平家物語』において、文治元年1185年2月に、義経が兄・頼朝の命で、讃岐国屋島敗走した平家討伐のため、わずかの兵を率い摂津国渡部(現・大阪市北区渡辺橋付近)から船で、阿波国勝浦目指すが、波浪高く船が破損とある。 『平家物語』において、寿永4年1185年11月に、義経北条時政からの追討避け摂津国大物浦から船で西国出航したところ、風が激しく住吉浦(現・大阪市住吉区)へ打ち上げられ陸路吉野山向かったとある。 『玉葉』において、義経数名の者が摂津国大物浦から1艘の小舟和泉浦に逃げたとあり、和泉浦は現・堺市から和泉市の浜のことである。

※この「源義経腰掛石」の解説は、「踞尾八幡神社」の解説の一部です。
「源義経腰掛石」を含む「踞尾八幡神社」の記事については、「踞尾八幡神社」の概要を参照ください。

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