源義親の横行と義家の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 16:15 UTC 版)
「源義親の乱」の記事における「源義親の横行と義家の死」の解説
義家の二男の義親は父譲りの剛勇で知られ、対馬守に任じられて九州に赴任していたが、康和3年(1101年)大宰大弐大江匡房から義親が人民を殺し、略奪を行っているとの訴えが起こされた。朝廷は追討を議し、まずは義家の郎党の豊後権守藤原資道を派遣し、説得して召還を試みることになった。ところが、現地に着いた資道は義親に従い官吏を殺してしまった。このため、翌同4年(1102年)12月、朝廷は義親を隠岐国へ流罪と決める。その後の動静は詳らかではなく、『大日本史』などは義親は配所には行かなかったとしている。 義親は出雲国へ渡り、目代を殺害して再び官物を奪う乱暴を働いた。義家の立場は苦しいものとなり、義家自らが子の義親追討に当たらねばならなくなった。 嘉承元年(1106年)、常陸国でも三男の義国と弟の義光が合戦に及ぶ騒動を起こし(常陸合戦)、義家が京都への召還を命じている。このような一族が引き起こす騒擾のさなか、同年7月、義家は68歳で死去した。
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