千葉常胤の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:48 UTC 版)
常重の子・千葉常胤は必死で立ち向かう。 久安2年(1146年)4月に、千葉常胤はまず下総国衙から官物未進とされた分について「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を納めた。結果、「其時国司以常胤可令知行郡務」と相馬郡司職を回復。相馬郷を「且被裁免畢」で取り戻した。しかし立花郷は戻ってこなかった。立花郷は相馬郷や千葉荘から東に遠く離れた太平洋側にある。 相馬郡司の地位と相馬郷を回復した常胤は、8月10日、改めて相馬郡(郷?)を伊勢神宮に寄進した。すでに天養2年(1145年)3月、源義朝による寄進があったが、千葉常胤は「親父常重契状」の通り、領主・荒木田神主正富(伊勢内宮神官)に供祭料を納め、加地子・下司職を千葉常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じた。
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