相馬御風の沈黙とその理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)
「糸魚川のヒスイ」の記事における「相馬御風の沈黙とその理由」の解説
ヒスイの再発見は、学問的(地質学と考古学)にも産業的にも画期的な意味を持つものであった。しかし、再発見への道を開いた相馬御風はそのことについて口を閉ざしたままで1950年(昭和25年)に死去した。宮島宏は『とっておきのヒスイの話5』(2016年)と『国石 翡翠』(2018年)で、相馬がヒスイの再発見について沈黙を貫いた理由について考察している。『とっておきのヒスイの話5』では、宮島は次の3つの説を挙げ、それぞれについて評価を与えた。 戦争中だったので沈黙した 戦争の推進に利用されるのを嫌って沈黙した 第二次世界大戦後の深刻な体調不良のため沈黙した 1は、戦争時の混乱期に公表してしまった場合の混乱(十分な保護ができない)を恐れて相馬が敢えて発表しなかったという説である。宮島はこの説について「昭和初期の社会的混乱期、特に1931年の柳条湖事件を発端とする満州事変以後に国が指定した記念物は多い」と記述した。むしろヒスイが中国渡来ではなく、日本国内の産であった事実が士気高揚に効果を発揮するものとしてこの説を否定した。 2について、宮島は相馬が当時体制翼賛的な立場をとっていたことを指摘した。この立場からは、戦争の推進目的に有用なヒスイの発見を隠蔽する必要がないことから沈黙は考えにくく、さらに隠蔽が明るみに出た場合は懲罰の対象となりかねないため、その点でも不可解とした。 3は、相馬の体調不良について、1942年(昭和17年)以降は左眼失明、大腸カタル、敗血症などいくつもの病気を抱えていたことを事実と認めた。しかし、体調が万全でない中にあっても相馬は執筆活動を続け、没年までの間に15冊の著作と多数の国民歌や校歌、そして個人誌『野を歩む者』の執筆から編集と校正に至るまでを独力で行っていた。この時期、相馬のもとには多田駿や北大路魯山人、中村星湖などの著名人を含む人々が訪問している。彼らに相馬がヒスイ発見について語ったという証拠は残っておらず、『野を歩む者』にも特段の記述は見られない。 『とっておきのヒスイの話5』で3つの説を否定した宮島は、『国石 翡翠』で再度の考察を試みている。宮島は1と3について否定的な見解を維持したものの、2の「戦争の推進に利用されるのを嫌って沈黙した」は再度の検討の結果、別の結論に至った。 既に述べたとおり、日本には産しないとされていたヒスイが小滝川で発見されたことは、学問的(地質学と考古学)にも産業的にも画期的な意味を持つものであった。しかも小滝川のヒスイは私有地ではなく公有の河川敷に存在したもので、本来ならば発見後すぐに県や国の機関に報告すべきものであった。縄文時代から利用が見られたものの、日本国外から渡来したものと考えられていたヒスイが日本国内で発見されたことは、天然記念物として重要なだけではなく「三種の神器」との関連性もあって士気高揚に大いに寄与するものであった。 しかし、相馬を始めとした発見の当事者たちは、その事実を隠蔽して沈黙に徹している。宮島はこの件について、「隠蔽を指示できるのは、関係者で最年長の(相馬)御風であろう」と判断した。その理由は、河野が糸魚川まで現地調査に来た際に相馬や伊藤と会っていないこと、さらに旧知の仲である考古学者の八幡にもヒスイ発見について伝えていないことが発見の事実を隠匿してきたことの証左であるとした。 宮島の推定では、4年間にわたるヒスイ隠匿が露見しないように、相馬、伊藤、鎌上、そして大町が相談の上で「1938年(昭和13年)に大町が発見した」シナリオを作り上げたとする。実際、大町は河野に対して相馬とヒスイの関わりを話していない。河野は相馬たちにとって、面会をできれば避けたい訪問者であった。小林から河野のもとにヒスイが送られてしまったのは相馬たちにとって予想外の事態であり、彼らの立場が危機的な状況に陥りかねないことを意味していた。相馬たちがなぜヒスイの発見を隠蔽して沈黙を貫いたのか、それはヒスイを戦争に利用を利用させまいとした「命懸けの信念」ではなかったかと宮島は記述している。 相馬は糸魚川に帰住する前、アナーキストの大杉栄と友人関係にあった。しかし、相馬の編集による『早稲田文学』1915年11月号と1916年1月号が危険思想の表れとして発禁処分となり、それと前後して大杉との交流も断絶している。帰住後の相馬は、『野を歩む者』の誌上などで「転向」したことを示していたものの、特高警察による監視は長きにわたって続いていた。第二次世界大戦の終戦後も、相馬はヒスイについて沈黙を貫いた。この点について宮島は、進駐軍によるヒスイの没収を恐れ、公表を避けたのではないかと推定している。 宮島は『糸魚川市史』第1巻(1976年)でヒスイ発見年を1938年(昭和13年)に変えたのは、監修者で執筆者でもある青木の「意図的な改変」と指摘した。しかし、この改変は相馬によるヒスイ隠匿を批判されないための配慮と解釈することが可能だと宮島は記述している。ただし、宮島によれば相馬の沈黙はヒスイを戦争推進に利用されないためのもので、青木による改変(発見年、案内者、ヒスイの送付時期)はあちこちで矛盾が生じるものであった。宮島は青木の改変について「編著者の青木にはメリットがないことであり、悪意があって行われたものではないことは明白である」として、青木の唯一の目的は、郷土の偉人である相馬のイメージを下落させないことであったと意見を述べた。
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