三条西公条とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 学者・研究者 > 国学者 > 国学者 > 三条西公条の意味・解説 

三条西公条

読み方さんじょうにし きんえだ

室町後期公卿学者京都生。実隆の嗣子一字名は蒼・碁、法名は仍覚、謚を称名院仕えて正二位右大臣に至る。出家後は諸国遍歴し、詩歌吟詠の生活を送る。永禄6年(1563)歿、77才。

三条西公条

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/05 22:44 UTC 版)

 
三条西公条
三条西公条像
後奈良天皇賛、二尊院蔵)
時代 戦国時代
生誕 文明19年5月21日1487年6月12日
死没 永禄6年12月2日1563年12月17日
改名 公保(初名)→公条→仍覚(法名)
別名 号:称名院
戒名 称名院因空
墓所 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町の二尊院
官位 正二位右大臣
主君 後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇
氏族 三条西家
父母 父:三条西実隆、母:勧修寺教秀の三女
兄弟 公順、公条、桂陽、保子、正親町実胤室、勝興寺左計室
正室:甘露寺元長の娘
実枝、水無瀬兼成、中院通為
テンプレートを表示

三条西 公条(さんじょうにし きんえだ)は、戦国時代公卿歌人・和学者。内大臣三条西実隆の次男。官位正二位右大臣称名院と号する。

経歴

兄・公順が出家したために[1]次男ながら家督を継ぎ、2歳で叙爵して侍従に任じられる。明応6年(1497年)12月に元服・加冠した後、永正2年(1505年)5月蔵人頭、永正4年(1507年)4月参議、永正8年(1511年)10月権中納言を歴任し、大宰権帥や神宮伝奏を経て、永正18年(1521年)4月権大納言に昇進した。

大永6年(1526年)1月正二位に叙され、天文10年(1541年)1月内大臣、さらに天文11年(1542年)閏3月右大臣に任じられるが、天文12年(1543年)7月57歳で致仕、天文13年(1544年)2月京都二尊院で出家、法名を仍覚という。永禄6年(1563年12月2日に薨去。享年77。二尊院に葬られた。

父・実隆から『源氏物語』の奥義を継承し、『明星抄』などの注釈を表した他、享禄元年(1528年)から翌年にかけて後奈良天皇に『古今和歌集』を進講するなど、当代一流の文化人として重用された。著書には、古典の注釈書『伊勢物語抄』『百人一首抄』、紀行文に『高野山参詣記』『吉野詣記』『三塔巡礼記』など、他撰の家集としては『称名院』がある。

稲葉良通に専門的な薬方の相伝を行なっている(『稲葉一鉄良通薬処方口伝書』)[2]

系譜

孫に三条西公国、外孫に中院通勝、玄孫に春日局が、甥に九条稙通がいる。

脚注

  1. ^ 公順は公条よりも3歳年長であったが、父・実隆が兄の早世によって次男でありながら家督を継いだことから、これを嘉例として公順を廃して(『実隆公記』長享2年3月5日条)、後に東大寺に入れて出家させ、次男である公条を跡継ぎにしたという(菅原正子「三条西公条と学問」『日本中世の学問と教養』同成社、2014年 ISBN 978-4-88621-673-1)。
  2. ^ 宮本義己「稲葉一鉄の医道知識と薬方相伝」、『国学院大学大学院紀要』5輯、1973年



三条西公条と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三条西公条」の関連用語

三条西公条のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三条西公条のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2024 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三条西公条 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS