水無瀬兼成とは? わかりやすく解説

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水無瀬兼成

読み方みなせ かねなり

江戸初期公卿水無瀬英兼の嗣子三条西公条の子。初名は親氏、のち兼成、法名慈興権中納言二位に至る。三条西世の門人で、三条殿流の書を能くする慶長7年1602)歿、89才。

水無瀬兼成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/02 10:03 UTC 版)

 
水無瀬 兼成
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 永正11年(1514年
死没 慶長7年9月18日1602年11月1日
改名 親氏(初名)→兼成→慈興(法名)
別名 一字名・水
官位 正二位権中納言
主君 後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇
氏族 水無瀬家
父母 父:三条西公条、母:甘露寺元長の娘
養父:水無瀬英兼
兄弟 三条西実枝兼成、女(中院通為室)
阿州足利
氏成、女(大通寺従高室)
養子:親具
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水無瀬 兼成(みなせ かねなり)は、戦国時代から江戸時代公卿正二位権中納言[1]

生涯

永正11年(1514年)、三条西公条の次男として誕生。兄に実枝がいたため、水無瀬英兼の養子となる。

天文16年(1547年)正月5日、従三位に叙される[1]

永禄11年(1568年)10月、将軍・足利義栄阿波へ退くと、義栄派の公家朝廷を追われ、兼成も阿波へ下向を余儀なくされた[2]

元亀2年(1571年)10月、実子の氏成が誕生する。だが、高倉永家の四男・親具をすでに養子としていたため、兼成の跡目をめぐって争いが起きた。結局、親具は水無瀬家を去り、別家となる堀河家を立ち上げた。

慶長5年(1600年)、出家し、慈興と号する。

慶長7年(1602年)9月18日、死去。享年89。

人物

兼成は能筆家として知られ、将棋に銘を印した。「水無瀬駒」と称されたその駒は、正親町天皇後陽成天皇足利義昭豊臣秀次徳川家康など、公武の面々に譲渡された。兼成がその生涯で制作した将棋駒は、700組以上だとされる[3]

脚注

参考文献

関連項目



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