金沢文庫本
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留学僧・恵萼が会昌4年(844年)に蘇州・南禅院を訪れ、白居易直筆『白氏文集』を寺僧の協力を得て書写し、承和14年(847年)に帰国して齎した。博士家(菅家)に伝えられたものを鎌倉初期・寛喜3年(1231年)頃~貞永2年(1233年)にかけて、豊原奉重が一部(巻22・54・63など)を自らの手で、残りは傭筆で書写し、全巻の校正をおこなった。嘉禎2年(1236年)に唐本で以て校点を加え、更に建長4年(1252年)に「貴所(冷泉宮)」の御本で以て再度校点を施した。これらは紀伝点が施されており、渋引表紙の装丁で奉重の外題が手筆された巻子本であったと想定される。のち、設立後間もない時期に金沢文庫に収められ、金沢文庫本『白氏文集』の中核となった。現在、奉重本として残るものは23巻あるが、「金沢文庫本」と称される『白氏文集』は、奉重本の他に平安後期写本(数種あり)、江戸時代写本など年代・伝来を異にする諸本を含んでいるため、区別が必要である。 その後の伝来は不明であるが、『経籍訪古志』には、活字本を刊行した那波道円と関わりの深い林羅山が、金沢文庫本を用いて途中まで校正をおこなった旨が記載されており、京都の公家の何某かの手許にあったと推測されている。また慶長期(1596-1614年)までに一部が流出しているが、それまでにも何度か書写されたと考えられている。 金沢文庫本『白氏文集』は、明治になって大部分が田中勘兵衛教忠の手に渡り(角坊(すみのぼう)文庫)、大正6年(1917年)1月、26巻中の20巻が和田維四郎(雲村)により久原文庫に購入された。田中家残存の6巻の内、巻23は三井右衛門に譲渡されたが、それ以外の5巻は子・忠三郎、孫・穣と継承、最終的に国に移管され、国立歴史民俗博物館に収蔵された(「田中穣氏旧蔵典籍古文書」)。久原文庫購入の20巻は、一時京都帝国大学図書館に寄託されたのち、昭和22年(1947年)に東急電鉄主宰・五島慶太が購入し、大東急編成記念図書館の所蔵となった。三井右衛門に譲渡された巻23は、既に三井家にあった巻38(別本重複巻)と併せ、平成23年(2011年)秋に三井依子(新町三井家)より三井文庫に寄贈され、三井記念美術館が収蔵している。また江戸後期の考証学者狩谷棭斎旧蔵の巻28および巻33があり、巻28は久原文庫に収蔵され、巻33は天理大学附属天理図書館に所蔵されている。この他、保阪潤治旧蔵の巻40があるが、田中家から分離したものであるかは分かっていない。現在の所在は不明。
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金沢文庫本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:08 UTC 版)
「金沢文庫本」は金沢実時、貞顕らが収集した典籍で、「金沢文庫」という蔵書印のある書物は古くから有名であった。かつての蔵書はほとんどが散逸しており、一部が各所に所蔵されている。文化財指定されているものも多い。 文庫印が金沢氏の代に押された確証はなく、いつ、何の目的で押されたかも不明であるが、室町時代に文庫の流出を危惧した称名寺の僧らが押したのではないかとも言われている。室町時代にも金沢氏の旧蔵書は称名寺の蔵書と一応区別して保管されていたと見られる。 徳川家康が持ち出した蔵書も多く、現在、国立公文書館内閣文庫、宮内庁書陵部、蓬左文庫などに所蔵されている。 以下、各所に残る「金沢文庫本」を概観する。文庫印のあるもの、及び(文庫印がなくても)実時、貞顕らの奥書がある写本も含む。
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