金沢時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 04:49 UTC 版)
元治2年(1865年)2月23日金沢宝船路町の紙商石王孫平の次男として生まれた。小学校に通ったかは定かではないが、中学校へは進まず、学問は私塾や独学で身につけたと考えられる。一時陸軍士官学校を志したが、乗馬の練習中落馬により負傷し、断念したという。 1884年(明治17年)12月15日木倉町62番地井波太三郎の死後、養子となって家督を継ぎ、同地に英学塾を開き、1885年(明治18年)には六枚町46番地に移った。 1885年(明治18年)雲根堂牧野一平の依頼により、8月から12月まで『広益英倭字典』を基礎に『新撰英龢字敟』を編纂した。1886年(明治19年)2月11日からは牧野の後援で上松原町に出張講義し、仙石町でも教えた。1888年(明治21年)泉鏡花が六枚町の塾に入学し、英語の代稽古をさせたほか、巣鴨拘置所教誨師花山信勝の母が仙石町の塾で英語を学んだという。
※この「金沢時代」の解説は、「井波他次郎」の解説の一部です。
「金沢時代」を含む「井波他次郎」の記事については、「井波他次郎」の概要を参照ください。
- 金沢時代のページへのリンク