サポート、レコーディング関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 20:55 UTC 版)
「高山一也」の記事における「サポート、レコーディング関連」の解説
石川県金沢市出身。小学校4年の頃からギターを始め、国立高等専門学校である石川工業高等専門学校に入学してからは市内で大学生・社会人に混じってバンド活動を始める。金沢時代に加入した最初のバンドは「めんたんぴん」のドラマー沖村公平が名付け親の「サザンブリーズトランスファー(SBT)」、次に「マザーグース」の高田幸枝がボーカルの「メジャー(MAJOR)」、ボーカルが井口之夫に代わった「ボッパー(BOPPER)」、最後は「プライベート(private)」で当時のヤマハのコンテスト(ポプコン・ロックフュージョン・LMC)等で活躍した。その後上京、六本木にあった「アン・ミュージック・スクール」でジャズ理論等を学びながら音楽活動を開始。1984年、レコード会社のオーディションに合格したことをきっかけにプロの道を歩み始め、根岸孝旨、江川ゲンタら同世代を中心としたミュージシャン達とも交流を深める。1985年、フォーライフレコードのディレクターに杏里を紹介されサポートバンドに加入。この時点でバンドには既に浅野祥之が在籍しており、当初はツインギターの一人として呼ばれたのだが、長く在籍した浅野は多忙となり惜しまれつつも離任。数年後には前任の小倉泰治の指名を受ける形でバンドマスターに就任、ツアーアレンジを全面的に手掛けるようにもなった。1987年、旧知の有賀啓雄のソロデビューアルバムの全曲でギターとトラックのプログラミングを担当。1993年から3年間、小田和正のバンド「Far East Club Band」に加入。同時期に松田聖子のツアーに参加するなど、現在に至るまでサポート、レコーディングを通じて、内外を問わず多数のアーティストと関わっている。
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