北条本とは? わかりやすく解説

北条本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)

吾妻鏡」の記事における「北条本」の解説

現在もっとも一般的なテキストである1933年昭和8年)の『新訂増補国史大系』の底本となるものは、北条本と呼ばれ後北条氏所蔵していた写本とされていた。それが天正18年1590年)の豊臣秀吉小田原征伐のとき、北条氏直開城折衝あたった黒田如水贈ったものを、如水の子黒田長政慶長9年1604年)に徳川家献上したのである現存する「北条本」の分析から、現在では楮紙の古い料紙32冊と、楮紙の古い料紙修善寺紙の補入が施されている10冊、修善寺紙のみの1冊の計43巻を家康慶長8年1603年以前おそらくは慶長以前1596年以前)に一括して手に入れていたと推定されるその後収集による増補を、それまで入手していたものと同じ書式書き写させたものが、白紙に近い紙を用いた8冊であり、その追加収集平行して古活字本開版準備進められていたとされる黒田長政献上のものが何冊であったかは不明であるが、いずれにしてもその白紙に近い紙による8冊の増補過程校合利用されたと思われる。つまり「北条本」と言われる写本は「昔北条本と思われ写本」「いわゆる北条本」であって後北条氏から伝わった現物はどこにも存在せず家康の元で増補された写本中に書き写され原資料のひとつでしかないということになる。 尚、家康開版したものは、慶長10年1605年印行慶長古活字本伏見版)であり、外題版心には「東鑑」、内題には「新刊吾妻鏡」とあり、相国寺中興の祖とされる西笑承兌せいしょうじょうたい)の跋文ばつぶん)がある。寛永版は寛永3年1626年)に、慶長活字版を元に難解な文を訂正しカナを符って『吾妻鏡』普及目指したものである林道春羅山)の跋文により『吾妻鏡』由来理解できるようになっている原本家康没後江戸城内の紅葉山文庫収蔵され、現在は国立公文書館重要文化財である。尚『新訂増補国史大系』はこの「北条本」を底本しながらも、島津本からとされる吾妻鏡脱漏」を加え吉川本校合用いた

※この「北条本」の解説は、「吾妻鏡」の解説の一部です。
「北条本」を含む「吾妻鏡」の記事については、「吾妻鏡」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「北条本」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北条本」の関連用語

北条本のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北条本のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吾妻鏡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS