長慶天皇の伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:53 UTC 版)
南北朝時代の長慶天皇は、大正時代に結論が出るまで、即位したかどうかが長らく議論になった人物である。また、退位後の動静が不詳のため、全国各地に隠棲や陵墓の伝承がある。蒲生峠もそうした地のひとつで、峠の近辺には長慶天皇にまつわる逸話や「遺物」がある。 当地の伝承では、退位して法皇となった長慶帝は、当時「六分の一殿」と呼ばれ大勢力を誇った山名氏を頼って山陰に下向した。南朝出身の長慶法皇が山名氏の力を後ろ盾にして足利氏を倒して南朝勢による統一を狙っていたとの見方もあるが、推測の域を出ない。いずれにせよ、長慶法皇は丹波国の桑田郡千歳村(いまの亀岡市)に潜んでいたところを山名氏清に迎えられた。一行はしばらく蒲生峠下の岸田(兵庫県新温泉町)に逗留したあと、蒲生峠を越え、因幡の洗井村(いまの岩美町)の豪農の家に入った。当時下賜されたという「長慶法皇の御法衣」が今も保存されている。 その後、法皇一行は蒲生川の支流小田川の谷筋に入り、長郷地区にとどまった。この地は「天皇ヶ平(なる)」と呼ばれている。その後、長慶法皇は面影山で没したという。
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