長慶死後の内乱とは? わかりやすく解説

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長慶死後の内乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:11 UTC 版)

三好長逸」の記事における「長慶死後の内乱」の解説

長慶と義興の死後長慶の甥で幼少当主三好義継を他の三人衆三好宗渭岩成友通)や松永久秀と共に補佐し永禄8年1565年5月19日には三好氏障害となっていた足利義輝殺害した永禄の変)。長逸は襲撃加わり義輝正室である近衛稙家女(近衛前久の妹)を保護し近衛邸に護送している。 しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第対立深め11月16日三好宗渭石成友通三好康長とともに飯盛山城入り、義継の奉行人である長松軒淳世らを殺害したうえで義継を高屋城移し、義継を説き伏せ久秀討伐大義名分獲得永禄9年1566年)に入ると両者交戦状態に突入した三人衆本国阿波支え篠原長房と義継の大叔父三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶組んで久秀と戦った一方の久秀は畠山高政安見宗房らと結んで対抗したこうした戦乱最中外国人保護行い永禄8年7月ガスパル・ヴィレラルイス・フロイス京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣同行させ、通行税免除允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒ありながらも「生来善良な人」「教会友人」と記している。永禄9年1566年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華立派な邸宅有した」などと称えている。 三人衆摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上戦い)、筒井順慶結託して松永久秀本拠地信貴山城多聞山城包囲したが、両者共に決め手無く争乱長期化ていった。この過程で、永禄10年1567年2月三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡10月10日三人衆軍勢が陣取った大和東大寺松永軍攻撃し焼亡する事件東大寺大仏殿の戦い)が起きている。だが、その10日後には長逸の嫡男生長と名を改めた長虎が山城普賢寺谷で松永方の軍勢勝利している。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局全般的に久秀を大和封じ込めていた三人衆方の優勢進んでいて、三人衆義輝従弟にあたる足利義栄14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後出され御供衆名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格立場三好長慶以降三好宗家当主御供衆資格将軍仕える事が許されていた)になったことが注目される永禄11年1568年)、織田信長が6万と号する大軍擁し永禄の変三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭押し立てて上洛開始した。長逸は4月美濃三人衆稲葉良通信長への取り次ぎ依頼したうまくいかなかった。信長動き対し三人衆はかつての宿敵である近江六角義賢紀伊国国人衆高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で三人衆攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継松永久秀いち早く信長恭順する。長慶没後三好家内紛悪影響甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢近江追われ観音寺城の戦い)、将軍擁立した足利義栄上洛出来ず急死三人衆方の国人衆幕府奉公衆らからも織田方への寝返り続出三人衆それぞれの居城落とされ逃亡した。長逸は細川昭元と共に芥川山城籠城したがあえなく阿波退散した

※この「長慶死後の内乱」の解説は、「三好長逸」の解説の一部です。
「長慶死後の内乱」を含む「三好長逸」の記事については、「三好長逸」の概要を参照ください。

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