長慶天皇と南朝の後退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 09:17 UTC 版)
「南朝 (日本)」の記事における「長慶天皇と南朝の後退」の解説
1368年(正平23年/応安元年)には後村上天皇が住吉行宮で崩御し、同地にて長慶天皇が即位する。足利政権では有力守護の佐々木道誉、3代将軍の足利義満のもとで管領を務めた細川頼之などが南朝の楠木正儀と独自に交渉を行っていたが、長慶天皇は北朝に対して強硬的な人物であったと考えられており、和睦交渉は一時途絶し、翌1369年(正平23年/応安2年)に正儀は北朝へ投降する。南朝の征西府懐良親王も菊池氏や阿蘇氏、宇都宮氏の武力を背景に大宰府を有して九州を制圧していたが、九州探題として赴任した今川貞世(了俊)に駆逐される。その後交渉が再開され、南朝の使者が京都へ赴いている。1383年(弘和3年/永徳3年)に長慶天皇は弟の後亀山天皇に譲位する。なお、長慶天皇は即位していないという説もある。
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