長慶と長教の講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 04:57 UTC 版)
敗戦の報を聞いた将軍義晴は落胆し、諦めたのか、閏7月1日に細川晴元と六角定頼に和睦の使者を送り帰京した。 一方、舎利寺から高屋城に逃げ去った遊佐軍を追撃する三好軍は若林(大阪府松原市若林周辺)に陣取り、それに対して氏綱・遊佐連合軍は足軽を出撃させ、小規模の戦闘が生じた。ただ決定的な勝敗はつかないまま天文16年が過ぎ、三好軍による包囲は越年して8ヶ月に及んだ。 天文17年(1548年)4月27日に至って六角定頼の仲立ちによる講和が成立し、三好長慶は遊佐長教の娘と政略結婚を結んだ。
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