長慶への帰順と三好三人衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:06 UTC 版)
「三好宗渭」の記事における「長慶への帰順と三好三人衆」の解説
永禄元年(1558年)9月には仇敵であった長慶の家臣となっている。以後は長慶の勢力拡大に貢献し、永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に参陣して武功を挙げた。 永禄7年(1564年)に長慶が死ぬと、長慶の甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。おしどりを形どった花押を用いていたという。永禄8年(1565年)3月には出家して釣竿斎宗渭と名乗り、同年5月19日、他の三人衆、松永久通と共に三好氏と対立する室町幕府13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。
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