長慶との和解・決別とは? わかりやすく解説

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長慶との和解・決別

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)

足利義輝」の記事における「長慶との和解・決別」の解説

天文21年1552年1月六角定頼死去し息子義賢がその跡を継いだ六角氏この頃朽木の義支援して三好氏対立していたが、定頼が死ぬと、義入京及び氏綱の家督継承晴元出家条件として、直ち和平申し出た。これにより、義三好方との間で和平急速に進み長慶宥免して和解したまた、細川氏綱細川氏当主認めて晴元決別したため、晴元見捨てられる形となり、若狭へと逃れた同月23日、義三好氏和解したことにより、近江朽木出発し、翌24日には比良経て比叡辻至り28日には近衛稙家ら3千を率いて京へと入った。義入京の際、衣装や刀を美々しく飾り立てた数千の兵を率い多く見物人の前を堂々と進んだという。帰京後、義がどこに住んだのかは定かではないが、今出川御所に居したと考えられている。 2月、義三好長慶幕府御供衆とし、幕臣列した。この称号将軍の有力近臣にしか与えられない称号でもあった。また、長慶推す細川氏綱京兆家、弟の細川藤賢典厩家相続することが認められた。すでに畿内覇権細川氏三好氏移りつつあったが、この頃より好氏は細川氏同等、あるいはそれ以上存在として台頭してきた。 伊勢貞孝も義三好氏和解する赦免され、義のもとに帰参した。貞孝は長慶と深い絆で結ばれ、親三好幕臣同志集めた。それにより、幕臣中に三好派と反三好派が生まれ次第反目するようになっていった。やがて、義側近である奉公衆の上野信孝が台頭し、これに反発する幕臣との確執強まった同年6月、義伊勢貞孝らの反対押し切って山名氏赤松氏守護職奪い尼子晴久を8か国守護に任じたことで、幕府内に動揺生じた同年10月細川晴元三好勢丹波撃破した晴元は義決別したのち、丹波各地巡って味方集め再起図ったであったその後晴元勢い乗り、京の近郊まで出撃し、三好方と小競り合いをするようになった同年11月、義は京の郊外清水寺近く霊山に、新たな山城である東山霊山城築いた。これは義身の危険感じたからとされ、晴元の兵が京の郊外出没した聞くと、義洛中今出川御所出てこの城に入り生母はじめとする女性清水寺入れた将軍近臣らもまた、清水寺近くに陣を構えていた。 天文22年1553年1月細川晴元反撃により、京周辺政情不安定になると、反三好派の幕臣長慶排除のために策動するようになっていった。反三好の上野信孝らは密かに晴元内通し長慶除こうとした。 閏1月1日長慶は義への挨拶のため、公家衆奉公衆御供衆らともにそのもと出向いた。ところが、この頃には長慶排除するという噂が広まっていたため、8日身の危険感じた長慶は京から淀城へと移った2月、親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放諫言を義行い、これに義晴・義長年従って三好氏戦ってきた大舘晴光朽木稙綱同調した。親三好派の幕臣また、長慶密に連絡取り合い、反三好派の幕臣処罰訴えになっていった。そのため、義は信孝ら反三好派の幕臣らを処罰し、彼らから三好方に人質出させることにした。だが、幕臣は親三好派と反三好派に分裂しており、義三好細川のどちらにつくか、厳し選択突き付けられた。 同月26日、義長慶を京に呼び戻し清水寺招き、自ら対面した。義長慶がここで今後相互協力確認し合ったことで、伊勢貞孝新三好派の幕臣満足した。このとき、上野信孝以下の6人の幕臣から人質徴収された。 3月8日、義東山霊山城入城し長慶との和約破棄三好氏との断交決断した。そして、晴元手を組み長慶との戦端開いた上野信孝ら反三好派の幕臣が義働きかけ結果だと考えられ、わずか10日ほどでの方針変換であった。この時期畿内覇権細川氏から三好氏に移る「端境期」であり、両者ともに圧倒的な存在ではなく、どちらと手を組むかという判断は非常に難しいものであった7月28日、義晴元諸将召し出して晴元赦免し同時に長慶将軍の「御敵」に指名した。義東山霊山城出て北山に陣を敷き、翌29日には晴元諸将上野信孝大舘輝氏ら幕臣との間で軍議開かれ、京の三好方の拠点西院小泉城攻めることで合意した。このとき、義三好政生香西元成十河盛重ら諸将に酒を下賜した。 30日、義自身軍勢指揮し西院小泉城包囲して攻めた。だが、義出陣していたにも関わらず晴元諸将は兵の消耗恐れてか、一向に攻撃しようとしなかった。 8月1日長慶芥川山城抑えの兵を残して2万5千の軍勢をもって京に侵攻し幕府軍籠城する東山霊山城攻めた東山霊山城の戦い)。籠城する幕府軍猛攻に耐え切れず三好軍により落城し、火を放たれた。このとき、義船岡山迎撃の陣を敷いていたが、義頼みとしていた晴元三好方の猛攻恐れをなし、ほとんど一戦もせずに退却してしまった。 そのため、義晴元近衛稙家とともに京を離れ北へ向かった。まず、杉坂下り3日丹波山国庄浄福寺に、5日近江龍華至った。だが、長慶は「将軍随伴する者は武家公家関わらず知行没収する」と通達したため、公家高倉永相をはじめ随伴者の多くが義見捨てて帰京し、義に従う者はわずか40人ほどになったまた、伊勢貞助結城忠正のように奉公衆ありながら三好氏家臣準じた立場活動する者も現れるようになった

※この「長慶との和解・決別」の解説は、「足利義輝」の解説の一部です。
「長慶との和解・決別」を含む「足利義輝」の記事については、「足利義輝」の概要を参照ください。

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