長慶との和解・決別
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天文21年(1552年)1月、六角定頼が死去し、息子の義賢がその跡を継いだ。六角氏はこの頃、朽木の義藤を支援して三好氏と対立していたが、定頼が死ぬと、義藤の入京及び氏綱の家督継承と晴元の出家を条件として、直ちに和平を申し出た。これにより、義藤と三好方との間で和平が急速に進み、長慶を宥免して和解した。また、義藤は細川氏綱を細川氏の当主と認めて晴元と決別したため、晴元は見捨てられる形となり、若狭へと逃れた。 同月23日、義藤は三好氏と和解したことにより、近江の朽木を出発し、翌24日には比良を経て比叡辻に至り、28日には近衛稙家ら3千を率いて京へと入った。義藤は入京の際、衣装や刀を美々しく飾り立てた数千の兵を率い、多くの見物人の前を堂々と進んだという。帰京後、義藤がどこに住んだのかは定かではないが、今出川御所に居したと考えられている。 2月、義藤は三好長慶を幕府の御供衆とし、幕臣に列した。この称号は将軍の有力近臣にしか与えられない称号でもあった。また、長慶が推す細川氏綱が京兆家、弟の細川藤賢が典厩家を相続することが認められた。すでに畿内の覇権は細川氏か三好氏に移りつつあったが、この頃より好氏は細川氏と同等、あるいはそれ以上の存在として台頭してきた。 伊勢貞孝も義藤が三好氏と和解すると赦免され、義藤のもとに帰参した。貞孝は長慶と深い絆で結ばれ、親三好の幕臣の同志を集めた。それにより、幕臣の中に親三好派と反三好派が生まれ、次第に反目するようになっていった。やがて、義藤の側近である奉公衆の上野信孝が台頭し、これに反発する幕臣との確執が強まった。 同年6月、義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切って、山名氏や赤松氏の守護職を奪い、尼子晴久を8か国守護に任じたことで、幕府内に動揺が生じた。 同年10月、細川晴元が三好勢を丹波で撃破した。晴元は義藤と決別したのち、丹波各地を巡って味方を集め、再起を図ったのであった。その後、晴元は勢いに乗り、京の近郊まで出撃し、三好方と小競り合いをするようになった。 同年11月、義藤は京の郊外、清水寺近くの霊山に、新たな山城である東山霊山城を築いた。これは義藤が身の危険を感じたからとされ、晴元の兵が京の郊外に出没したと聞くと、義藤は洛中の今出川御所を出てこの城に入り、生母をはじめとする女性は清水寺に入れた。将軍の近臣らもまた、清水寺近くに陣を構えていた。 天文22年(1553年)1月、細川晴元の反撃により、京周辺の政情が不安定になると、反三好派の幕臣が長慶排除のために策動するようになっていった。反三好派の上野信孝らは密かに晴元と内通し、長慶を除こうとした。 閏1月1日、長慶は義藤への挨拶のため、公家衆や奉公衆・御供衆らともにそのもとに出向いた。ところが、この頃には長慶を排除するという噂が広まっていたため、8日に身の危険を感じた長慶は京から淀城へと移った。 2月、親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を義藤に行い、これに義晴・義藤に長年従って三好氏と戦ってきた大舘晴光や朽木稙綱も同調した。親三好派の幕臣もまた、長慶と密に連絡を取り合い、反三好派の幕臣の処罰を訴えるになっていった。そのため、義藤は信孝ら反三好派の幕臣らを処罰し、彼らから三好方に人質を出させることにした。だが、幕臣は親三好派と反三好派に分裂しており、義藤は三好か細川のどちらにつくか、厳しい選択を突き付けられた。 同月26日、義藤は長慶を京に呼び戻し、清水寺に招き、自ら対面した。義藤と長慶がここで今後の相互協力を確認し合ったことで、伊勢貞孝ら新三好派の幕臣は満足した。このとき、上野信孝以下の6人の幕臣から人質が徴収された。 3月8日、義藤は東山霊山城に入城し、長慶との和約を破棄、三好氏との断交を決断した。そして、晴元と手を組み、長慶との戦端を開いた。上野信孝ら反三好派の幕臣が義藤に働きかけた結果だと考えられ、わずか10日ほどでの方針変換であった。この時期は畿内の覇権が細川氏から三好氏に移る「端境期」であり、両者ともに圧倒的な存在ではなく、どちらと手を組むかという判断は非常に難しいものであった。 7月28日、義藤は晴元の諸将を召し出して、晴元を赦免し、同時に長慶を将軍の「御敵」に指名した。義藤は東山霊山城を出て、北山に陣を敷き、翌29日には晴元の諸将と上野信孝や大舘輝氏ら幕臣との間で軍議が開かれ、京の三好方の拠点・西院小泉城を攻めることで合意した。このとき、義藤は三好政生、香西元成、十河盛重ら諸将に酒を下賜した。 30日、義藤自身が軍勢を指揮し、西院小泉城を包囲して攻めた。だが、義藤が出陣していたにも関わらず、晴元の諸将は兵の消耗を恐れてか、一向に攻撃しようとしなかった。 8月1日、長慶が芥川山城に抑えの兵を残して、2万5千の軍勢をもって京に侵攻し、幕府軍が籠城する東山霊山城を攻めた(東山霊山城の戦い)。籠城する幕府軍は猛攻に耐え切れず、三好軍により落城し、火を放たれた。このとき、義藤は船岡山で迎撃の陣を敷いていたが、義藤が頼みとしていた晴元は三好方の猛攻に恐れをなし、ほとんど一戦もせずに退却してしまった。 そのため、義藤は晴元や近衛稙家らとともに京を離れ、北へと向かった。まず、杉坂に下り、3日に丹波山国庄の浄福寺に、5日は近江龍華に至った。だが、長慶は「将軍に随伴する者は武家・公家に関わらず、知行を没収する」と通達したため、公家の高倉永相をはじめ随伴者の多くが義藤を見捨てて帰京し、義藤に従う者はわずか40人ほどになった。また、伊勢貞助や結城忠正のように奉公衆でありながら、三好氏の家臣に準じた立場で活動する者も現れるようになった。
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